小説

『Tonight, Tonight』平大典(『カチカチ山』)

 薄明りの中、朝霧さんの白い背中が麻布のソファーの上に浮かび上がっていた。背骨沿いにあるいくつかの黒子が、呼吸に合わせて、太陽の表面を漂う黒点のように揺らめく。
 部屋の隅にあるステレオからは毎日聴いているフランク・オーシャンの曲が流れているが、朝霧さんがいるせいで、自分の部屋とは思えない。
 シャワーを浴び終えた僕は、腰にタオルを巻いて、縞柄のカーペットに胡座をかき、煙草を吸っていた。
 朝霧さんは、長く滑らかな黒髪を白い背中に垂らしながら、こちらを振り向く。
「高梨くん、来週の土曜の夜って暇かな?」
「ええ」朝霧さんの物言いが、業務的だったので、少し戸惑う。「空いてますけど」
「じゃあ、一緒に出掛けない」
 僕は煙を吐く。「いいっすよ」
「レンタカーを借りてちょっと遠出したいんだ」彼女の右手首から掌まで、包帯が巻かれていた。仕事中に手の甲を骨折したらしい。しばらくギブスで固定しているとのことだ。「これじゃ運転もままならないから」
「僕は運転手ってことっすか?」
「違うよ」朝霧さんは包帯を巻いた右手を払う仕草をしつつ、歯を見せて嗤った。「あたしが高梨くんと出かけたいだけ」
「そう言われると、嬉しいっすね」と言うと、朝霧さんははにかみながら、視線を逸らした。
「会社の人には、絶対に言わないでね。それに、友達とか知り合いにも。どこから情報が洩れるか、わかんないし。もちろん、未来永劫っていうのは無理かもだけど、しばらくの間は、ね」
「そうっすね」
 朝霧さんは、僕と同じ医療器具メーカーに勤める二つ上の先輩だが、社内では何を考えているかわからない美人、という位置づけだ。彼女は総務部、僕は営業部に在籍していて、仕事中は滅多に顔を合わせる機会がない。強いて言えば、若手が集まる飲み会などでたまに世間話をする程度の間柄であった。
 酒席で会話をしていると、僕たちは存外気が合うのでは、というのが率直な感想だった。だが、社内恋愛になるということもあり、二人きりでの食事に誘う勇気まではなかった。
 退勤する際に朝霧さんから声を掛けられたときは、正直に嬉しかったが、まさか僕の家まで来るという展開は予想だにしてなかった。


 次週の土曜日、朝霧さんの指示通り、僕の名前で予約してあったレンタカーを取り、大宮駅へ向かう。
 ネオンが煌めく南銀座は、週末の夜ということもあり人通りが多い。無数にある居酒屋の扉が、客を飲み込んだり吐き出したりしている。約束通り、朝霧さんは、駅前にあるロータリーに立っていた。黒いPコートにスキニーデニム、地味なニューバランスのスニーカーを履いていた。デートの割には、華やかさに欠ける格好だ。

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