小説

『Tonight, Tonight』平大典(『カチカチ山』)

 ホテルに直行するのか。胸の内でざわめいたが、彼女は助手席ではなく後部座席に座ってしまう。
「助手席、空いていますけど」
 ミラーを覗くと、後部座席の薄い闇の中に朝霧さんの白い顔が浮かんでいる。
「ごめんね。あたし、助手席って苦手なんだよね。それに会社の人に見つかると面倒じゃない」
「そうっすよね」確かに会社の人間に知られたら、一利もない。
「とりあえず、近くのインターから高速に乗ってもらっていいかな。……栃木方面に向かってくれない?」
 質問をしているようで、有無を言わせぬ言い方だった。
「なんかあるんすか?」
「まあ、秘密っていう感じで宜しく」
「……期待していいんすか?」
「信じてほしいな」朝霧さんは薄く微笑む。「あと、ごめん。ちょっと荷物を家に置いてきちゃったから、取りに戻りたいんだよね」
「いいですよ。マンションって、与野の方向でしたっけ」
 僕はアクセルを踏み込んだ。


 朝霧さんが住むマンションは、JR与野本町駅の付近にあるアイボリーの壁をした三階建ての建物だった。まだ深夜という訳ではない、いくつかの部屋からは、琥珀色の光が漏れている。
 僕は、ウインカーを焚きながら、ラジオのチャンネルをいじっていた。淡々としたニュースキャスターの声や騒がしいDJの声を交互に聞いているうちに、スイッチを切ってしまった。どちらも今夜の雰囲気を壊してしまいそうだ。CDでも持参してくればよかった。
 朝霧さんは、到着から五分ほど経過すると、マンションから出てきて、自動車のトランクを開けた。サイドミラーで確認すると、彼女は四〇センチ四方の青いクーラーボックスを担いでいた。手伝おうかと思ったが、包帯を巻いている右手は使わずに、左手だけでさっさと載せてしまう。
「お待たせ、高梨君」朝霧さんはやはり後部座席に戻った。
「ういっす」僕はアクセルを踏み始める。「アレ、なんですか?」
 クーラーボックスなんてのは、朝霧さんに不釣り合いだ。
「秘密。お楽しみっていう感じかな。まあ、期待していて」
「クーラーボックスでしたよね。魚とかですか? 釣りなんかやりましたっけ、朝霧さん」
 釣りだとしても、釣り竿も用意せず、クーラーボックスだけを持ってくることはあり得ないし、わざわざ取りに戻ったのだ、カラではないだろう。
「いや、そんなことないよ。……あとで教えてあげるから」
 目的地はどこだ。クーラーボックスの中身は何だ。

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