「あ、マジすか」
マンションに戻った時に、取りに行かなかったのか。
「実はマンションに行った時、急いでいたから置いてきちゃって」
「なるほど。取りに戻れ、ないっすね。……ここまで来ると」
「あと、目的地」朝霧さんは少し悪戯っぽく微笑む。「サプライズなんだけど、温泉宿を宿泊で予約してあるから。秘湯っていうのかな、ネットにも出てこないマニアックな処なんだよね。学生の頃、友達と行ったきりだったんだけどさ、本当に静かで景色も良くていい場所なんだってば」
「ホントすか? 温泉地なんて、二年ぶりっとかっすもん。……学生の時って、彼氏とですか?」
「違う、仕返しはよしてよ」
目的地が判明して安心すると同時に、僕は少し上気した。これで泊まることが確定する。
先週僕の家で交わった時、僕は主導権を握られなかった。そんな経験は初めてであった。言葉を発するのも惜しむように、僕の身体を貪られた。交わりが済んで、呼吸が乱れ唖然としている間に、朝霧さんはシャワーを浴びに行ってしまった。
今夜は僕が主導権を握る。
僕は言葉に出さず、胸の内に薄暗い決意を抱いていた。温泉宿に行くのは、好都合だ。宿を取ってあるということは、了解を得ていることと同義だ。身元も知らぬ女であれば、美人局も警戒するだろうが、勤務先が同じなのだ、問題ない。
ちらっとミラーを見ると、僕の頬はほんの少し緩んでいた。
結局、目的地近くの高速道路のインターを降り、コンビニ弁当で食事を済ませ、目的地の旅館を目指し、山道を進んでいた。秋の星座が並んでいる紺色の空に薄っすらと山稜が浮かんでいる。
「朝霧さん、こっちでいいんすか?」ちらっとナビを確認するが、一本道に矢印があるだけだ。目の前も漆黒の森が連なっているだけで、カーブの度に薄汚れたガードレールがヘッドライトを反射している。「宿があるようには思えなくてですね」
「もうすぐだからさ、大丈夫だよ」
「へえい」期待をしているとはいえ、徐々に苛立ち始めていた。
カタカタ。
トランクからの音は、起伏やカーブが多い山の道路に入ってから、ひどくなっていた。
「高梨くん、ちょっと聞いてほしいんだけど」
「なんすか」
「あたしの知り合いなんだけどさ。最近可哀想な人がいて」
「可哀想って、どんな感じですか? 怖い話はよしてくださいよ」辺りは闇が無限に広がっている。「こんな山の中だと、洒落になんないっつーか。……呼んじゃう的な」
朝霧さんがふふ、と小さく笑い声を発した。「オカルト系じゃないってば」