小説

『不可解の国からの不思議な声』洗い熊Q(『不思議の国のアリス』)

 それを振り払う様に正面を向き、転ぶかもと不安も忘れて目をくっと瞑って必死に走る。

 今でもあの豚がどうなったかと考えると胸が一杯になる。もう忘れたいと思う印象的な光景だった。

 薄暗い森の中の道を必死に、もう足音も何も聞こえない所まで走ってきた。
 息を吸うのに夢中になって立ち止まる。抱えていたモモちゃんを下ろす。地面の自分の足を見つめ、懸命に息を整えながら思った。

 あの豚はどうなったんだろう。

 引き返そうとも考えた。でも戻った先に、どうしようもない光景があったら。
 それを想像すると怖くなって足が竦んでいた。胸も痛くなった。

 その様子に心配したんだろう、モモちゃんが足元から覗きこむ様に私を見つめていた。大丈夫。大丈夫だからと無理に微笑み返す。
 私の笑みに尻尾を軽く振って答えてくれるモモちゃん。だけど急に何か気付いた様にまた鼻をクンクンと利かせ始めた。

 私も直ぐに気付いた。甘い香りが周囲に漂っていると。
 森の隧道が開ける光源先。そこから香ってくる。覚えのある香り。
 覚えのある声もそこから。

「――さあ時間がないよ! もう直ぐなんだ!」

 あのウサギの声だ。
 私はモモちゃんを連れ添って光の出口に向かった。
 森の区切りの迫持を抜けて広がる光景。甘い香りの主達が出迎えてくれる。

 灰色で典雅な多柱が並び一つ一つの柱に巻き付く沢山の茨。そして開いている、大輪咲きの薔薇。
 赤にピンクに白色も。弾く露が光り、香りでさえ見えて主張していると錯覚する美しい花弁たち。
 そして淡い彩りの世界にアクセントとして存在する、黒い薔薇が幾つもあった。

 思わず黒い薔薇に見入った。
 見惚れる神々しい漆黒の花弁。恐れというより、星空を包み込んでいる宵闇みたいな。

 見つめていた黒薔薇の花弁が一瞬だけ靡く。

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