小説

『アババババ』三角重雄(『あばばばば』)

 これは…、ゆうこのはずだ。しかし目の前の秋月ゆうこは、私が恋いこがれたあの秋月ゆうこではない!
 ゆうこはすっかり変わってしまった。髪も短く切り、スカートではなくズボンをはき、適当なブラウスの上に無造作にカーディガンを羽織り、店に出ているオーナーに用事があったのか、用事はないけれども久しぶりに店に出てみたかったのか分からないが、とにかく私が恋いこがれたゆうこではない、私の知らないゆうこが、あのゆうこの振りをして私の目の前に立っていた。
 もしゆうこが私を認めて、
「あら、こんばんは。お久しぶりです」
 と言わなかったなら、私はその女を断じて私の愛しいゆうこだと認めなかっただろう。けれども残念ながらゆうこはあのゆうこだった。肌は白く、髪も黒く、目もきれいだ。
 見ようによってはかつてのゆうことは別種の魅力を湛えて佇んでいる若い女と見えなくもない。だが、幸せを醸しているゆうこに、私は不満を感じた。ゆうこの全身から漂いだしている幸せ感は、私の催眠術の無効を私に突きつける、決定的な気配だった。
 してみると、ゆうこへの違和感はこの幸せ感だろうか?
 いや違う。私は分かった。根本的な違いが分かった。私が目の前にしているゆうこは、もはや女ではないのだ。
 何しろゆうこは、
「アババババ」
 と言っているのである。悪い冗談ではない。まん丸い目をして、自分の胸に抱きしめている赤ん坊に向かって、
「アババババ」
 と笑いかけ、語りかけている。そしてあろうことか私に向かって腕の中の赤ん坊を見せたのだ。ちょうど大事に抱えた花束を傾けて見せるように。
 私は思わず笑みを浮かべて、赤ん坊に向かって、
「アババババ」
 と言ってしまった。
 しまった!言ってしまった後、雷に打たれたように私は愕然とし、後悔した。取り返しのつかないことをしてしまった!何と言うことだ。
 これではまるで、そこいらの親父ではないか!
 私があれほど毛嫌いし、心底軽蔑してきた、世の中の父親あるいはオジサンという名の男の成れの果て、もしくは女のご機嫌を取る堕落しきった輩に、私は成り下がってしまったのか…。
 今、私が(手元に鏡がないから辛うじて客観的な自己チェックを免れてはいるものの、もしここに鏡があってその)鏡に映った現在の私を直視したなら、私はショックを受けて立ち直れないだろう。私は紛れもなく唾棄すべき存在に成り果てていると、自分確かめてしまうからだ。
 私はさっき、弛緩した表情で「アババババ」と思わず口走ってしまった。女の「アババババ」が男を堕落させる罠だったのだ。

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