小説

『アババババ』三角重雄(『あばばばば』)

「お次の方、どうぞ~!」
 足がもつれそうだが、敢えてシャキッと胸を張って、顔をキリッとさせて秋月さんの前に立った。MINTIAを差し出した。それで言うんだ。
「あ、あ、あ、…。何だっけ?」
「はい?」
「え、ええと、これと、ヴォ、ヴォ、ヴォ、」
「僕?」
「いや。えーと…」
「お客さん、大丈夫ですか?お顔が真っ赤です」
「そうですか。ヴォーグください。はぁ」
「僕?ください?」
「そ、そう。いや、そうじゃなくて、ヴォーグヴォーグ」
「僕、僕?」
「はあはあ?」
「どこかお具合でも悪いですか?」
「ヴォーグのメントール」
「あー」
 やっと通じた。でも、名前を聞けなかった。秋月さんは振り返って煙草の棚から煙草をひとつ取って、
「はい、こちらですね」
「いや、」
「いや、なんですか」
「そうじゃなくて、これ、ホープのメントール。私が欲しいのは、ヴォーグのメントール」
「あっ、やだ、ごめんなさい」
 今度は秋月さんが真っ赤になった。真っ赤になってすまなそうに頭を下げ、でも笑っている。かわいい。多分、大学生かな。二十歳くらいだろう。近くで見るとますます愛らしい。抱きしめたくなる人だ、とか言っている場合でないことが起きた。
 ハプニングでありサプライズであり、…違う、それは、「事件」だったと言うべきか…、いや違う。そうだ、強いて言うならばそれは奇跡だ!二十八年の私の生涯で私に訪れた、初めての奇跡だったのだ。
 話が飛躍したかも知れない。分かりやすく言い直したらこうだ。私が出した千円札のお釣りを彼女がくれる時、私と秋月さんの手が触れ合ったのだ。その瞬間、目が合い、店内の雑踏は消え、周囲は光に満たされ、私の全身がしびれた。私の時間は、私と秋月さん、二人だけの時間となり、静止してしまったのである。
 最初、何が起こったか分からなかった。ハートがキュンとなったのは事実だが、それよりも体中がしびれた感覚のすさまじさが忘れられない。時が止まったのか…。実際はスローモーションで動いているように感じられた。いや、物理的な時間はもちろん通常通り動いていただろう。しかし、私の全身は通常の感覚以上の感覚を味わっており、感覚が全開になって…、つまりあたかも全身が目となった私が秋月さんの笑顔を見つめていたと言うべき状態、至福の状態が私に訪れ、私はその幸せな無時間の時間に浮遊していたのだ。

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