小説

『アババババ』三角重雄(『あばばばば』)

 とオーナーがやや急ぎ足でやって来た。私は唖然として立ちすくんでしまった。(ゆうこ、ちょっと…、ゆうこ、ちょっと?)
 秋月さんはレジの前に「レジ休止中」の札を立てた。オーナーが秋月さんに近寄る。近寄って耳元で何か囁いた。秋月さんは店の奥に入っていってしまった。
「次の方、どうぞー」
 気がつくと秋月さんがさっきまで立っていたレジにオーナーが立ち、私を呼んでいた。その声にいざなわれた私は夢遊病者のようなオートマチックな動きで動いて会計をし、その場を離れた。その場を離れたが、私の視線は秋月さんが消えた店舗と住宅の間の扉に吸い寄せられたままになっていた。私の中で繰り替えし鳴っていた私自身の言葉、それは、「秋月さん」、「秋月さん」、「秋月さん」である。しばらく鳴り響いていた「秋月さん」の言葉の残響の堆積に自分が埋もれる直前に、私は気がついてしまった。
「秋月…、それはオーナーの名だ」
 ということに。
 平安の昔男だったら焦がれ死にをしただろうか?いや、平安の色好みの昔男は果敢だった。ある嵐の晩、雷が鳴り響く中、男は女を連れ出し、雨の中、女を背負って逃げ出したのだ。その女はただの姫ではなく、姫の中の姫であり、彼女は帝の許嫁だったのだ。それに比べたらどうだ、秋月ゆうこはたかだかコンビニのオーナーの妻ではないか!
 私の恋心はしおれたりはしなかった。むしろ、私自身の黒々とした闇のエネルギーを母体に、地獄の炎として燃えたぎった。人妻?望むところだ。あんな年の離れたオーナーは、秋月ゆうこに似合わない。秋月ゆうこを抱くのは、私のようなイケメンの男だ。こうなったら、封印を解こう。私の催眠術のすべてを駆使して、必ずや秋月ゆうこを誘惑し、落とし、私のものにし、虜にしてやるのだ!見てろ!
      ※
 それ以来一年半、秋月ゆうこを見なかった。最初のひと月ほどはほぼ毎日、来る日も来る日も欲望という己心の魔物の権化となってコンビニに日参した私だったが、ゆうこには会えなかった。二ヶ月目にはやや気持ちが萎えたが、もし日参しなければ、たまたま行かなかった日にゆうこが店に出ていたと後で知るかも知れない。そうなったら後で知った時の後悔は計り知れないだろうと思い、無理に通った。三ヶ月目には惰性で通った。
 そのうち帰宅経路にもう一つコンビニが出来、ゆうこのコンビニに行く回数は少なくなった。それでも時々ゆうこへの執着がむらむらと起きた。そんな時には世の中の不条理さを憎んだ。どうしてゆうこのような若くてかわいい女があんなオーナーの妻なのか、さっぱり分からなかったからだ。分からないまま、忘れかねたゆうこの面影を求めて、来店頻度は減ったとはいえ、あのコンビニには時折通ったのだ。
 あの声が聞きたい。「アハハハハ」と屈託なく笑ったゆうこのあの声、あの時の無邪気な笑顔、失敗した時の真剣な謝りっぷり、その時の恥じらいの赤い顔、長いまつげ、輝く瞳。ゆうこ…、会いたい…。
 そのゆうこが目の前にいる。

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