小説

『アババババ』三角重雄(『あばばばば』)

 再び私は我に返った。瞬時にいつもの私が戻ってきた。私は一体どうしてしまったのだろう。いや、どうしたどころではない。私は今、邪悪さの塊になっていた。何てことを考えていたんだ。あの可愛い秋月さんをたぶらかそうとしていたなんて…。
 我に返った私は、自分で自分の心の揺れにとまどいながら、コンビニを後にした。来た時よりも随分暗くなった気がする。闇がぽっかりと口を開けたかのような暗さの中に私は歩み出した。とにかく今夜は、一人住まいのアパートに帰らねばならない。目と鼻の先の我が家が、やけに遠く感じられる闇夜であった。
      ※  
 一日一回はコンビニに足が向いてしまう。どうしても秋月さんの笑顔が見たい。できれば名前を知りたい。仕事帰りにコンビニに寄るまでの間、私は秋月さんの名前を勝手に想像した。
 私が望月保正だから、キラキラネームではいやだ。釣り合う名前がいい。例えば、秋月ユリア、違う、秋月セリナ、違う違う、それではむしろDQNネームじゃないか。もっと優しい名前がいい。秋月七海、いいかもしれない。秋月雫、それじゃあアニメみたいだ。秋月サヤカ、いいな。
「サヤカちゃん」
「やすまささん」
 違う。ちょっと違って惜しい。何かそぐわない。やはりどうしても、秋月さんの名前が知りたい。待てよ。秋月さん、秋月さん…。どこかで聞いたな…。
 店にはいると秋月さんが笑顔で、
「いらっしゃいませ」
 と声を掛けくれた。なんて素敵な声なんだ。ちょっとハスキーな感じもしないではないが、ハスキーというよりセクシーだ。男心をとろかす声。あの声で「やすまささん」
 と言われたら、絶対たまらない!
 秋月さんのいるところはいつも微妙に発光しているようだ。そこは空気がきれいな気がする。目が優しい。キラキラしている。長い髪はナチュラルなウエーブがかかっている。時々髪をいじる仕草に胸が焦がれる。今すぐに髪を撫でて上げたい。秋月さんは月の精だろうか、色が白く美しい。秋月さんは…、秋月さんは…。
 平安の昔の男が、恋の病に陥った時のこころもちは、もしかしたらこんなものだったかも知れない。切なくて苦しくて幸せで不幸せだ。今日も平安色好みの昔男となるべく、私は今日はクロレッツ・ミント・タブを手に取った。
 私の前に客は一人、多分、前の客は左の男のレジに行く。私の担当は秋月さんだ。出来うるならば、一生秋月さんに担当をやってもらいたい。それも私オンリーの。そう思った時、昨日と同じ邪悪さの流れが、心の奥のブラックホールの蓋をこじ開けながらあふれ出す気配を見せた丁度その時、店の奥から、
「ゆうこ、ちょっと」

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