小説

『アババババ』三角重雄(『あばばばば』)

 ひと言で言えば変成意識状態ということであろうが、私にとって初体験であったそれは、強烈なインパクトを私にもたらした。
 多分私は、しばし呆然としていたのだろうが、
「ありがとうございました」
 という秋月さんの声で我に返った。時が戻ってきた。通常の世界では、こういう時に言うべき言葉は決まっていた。
「ああ、どうも」
 私は辛うじてそう言って、秋月さんに背中を見せて店を去ろうとした。
 三、四歩歩き、コンビニのドアが開こうしたちょうどそのタイミングで、今度は全く別の衝動が私の全身を駆けめぐった。今度もまた強烈な感覚だ。私はその場で振り返って秋月さんに駆け寄りたくなってしまった。
 私を貫いた衝動を、私は振り返るのが怖い。振り返って直視するのはなお怖い。それはものすごいエネルギーを伴って、どこからか私の心のど真ん中に流れ込み、私の全人格を乗っ取るような勢いで私さながら暗黒に塗り上げようとする、得体の知れない力であった。簡単に言おうとすれば、言えないこともない。言うのは未だに怖ろしいのだが、敢えて言うならば、私は邪悪さの虜になってしまったのである。
 多分、まだ正直に言えていない。本当はもっと怖ろしいエネルギーが私の全身を貫いたのだろう。冷静に考えればうすうす感じられるし分かりかけたことがあったが、それは分かりたくないし認めたくないことであった。
 今となってはあの瞬間を分析出来ないこともない。多分、私があの時感じたことは、「恐らく私はまだ自分を直視していない」ということであり、分かりかけたことは「直視したら私はどうする?という岐路に今立った」ということだった。そして今だから正直に言うが、その邪悪なエネルギーは本当は、どこからか流れ込んできたのではなく、私の中にあったのだろうと、私は気づきたくないが感じてしまったのだ。
 その時の私は、気づきたくないから、私の中の暗黒を直視せずに暗黒の流れに身を任そうと、内心秘かに決めてしまいかけた。暗黒の流れは感じられた。感じられるままに私は押し流された。いや、これも私自身の潮流だったが、「封印した『あれ』を自分の欲望のために使おう」という己心の魔のささやきは、私を奈落の底に沈める渦潮となって、私の胸で渦を巻いていたのだ。
 封印した「あれ」とは催眠術だ。
「催眠術を使って私は秋月さんを落とそう。私には出来る。中学時代には、私はあんなに催眠術が得意だったではないか。私がかけた催眠術で、青木由美子は『本当に波が寄せて足が濡れるから』と暗示にかかり、教室の机の上にスカートを翻して躍り上がったではないか。秋月さんを虜にすることは出来る。今度来た時、お釣りを受け取る時に、目を見ながら故意に手に触れて、カタレプシーに導こう。秋月さんは固まるだろう。私は彼女を変成意識に導ける。私はMINTIAのきれいな息で、その瞬間、彼女の耳元で時間と待ち合わせ場所を囁こう。アンカーを沈めることが出来たら、次はトリガーを仕掛けよう。私は何度でも秋月さんをデートに誘える。次の機会に必ず私は、」
 その時、後ろの客が私の背中にぶつかり、私をすり抜けて出ていった。

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