小説

『金魚姫』宍井千穂(『人魚姫』)

「水の世界は、どうでしたか?」
 はっと目を覚ますと、そこは真っ暗な空間だった。目の前には笑顔を浮かべた金魚の姿がある。まるで悪夢を見ていたようだ。背中にじっとりと嫌な汗が流れる。慌てて全身を見てみると、手も足もちゃんとあった。
「どういうこと?私は魚になったんじゃないの?」
「いいえ、あなたはまだ薬を飲んではいません。これは私が見せた幻覚です。正確に言えば、あなたが魚になった後の未来です。あなたにはお世話になりましたから、そのサービスということで」
 金魚の大きな目が鱗の光でギラギラと光る。あれは本当に私の未来だったのだろうか。まだ身体中にぬるついた水の感覚が残っている。お母さんとお父さんの悲しそうな顔も、愛美の笑い声も。
「どうしますか?あの教室に戻りますか、それとも……」
 白い手が小瓶を差し出す。中の液体は、さっきよりも濃い青色になっているようだった。
 私はもうあの教室では生きていけない。でも魚になっても、その苦しみからは逃れられない。結局愛美がいる限り、私は陸の世界でも水の世界でも生きていけないのだ。まるで、泡になった人魚姫のように。
 私は小瓶に手を伸ばした。

 立て付けの悪い扉を開けると、教室はいつもより静かなようだった。私が席についても、悪口を言う声は聞こえてこない。
「愛美、どうしたんだろう。休みかな?」
 取り巻きたちが心配そうに愛美の机を見つめる。始業時間が迫ってきても、愛美は現れなかった。 
 古ぼけた始業のチャイムとともに先生が教室に入ってくる。その顔は、心なしかいつもより青ざめているように見える。教壇に着くと、かすれた声で話し始めた。
「えー、今日はホームルームの前に、一つ悲しい知らせがある。実は今日の朝、黒川愛美が亡くなった。どうやら昨日の夜に心臓発作を起こしたようで、そのまま……」
 一瞬の間を置いて、ざわめきがさざ波のように教室中に広がっていく。すすり泣くクラスメイトの横で、私は密かに笑みを浮かべた。おかしくておかしくてたまらない。吹き出しそうになり、思わず顔を手で覆った。やっとあんたの気持ちがわかったよ、愛美。

 水槽の中には、真っ黒な金魚が一匹泳いでいた。

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