小説

『金魚姫』宍井千穂(『人魚姫』)

「じゃ、掃除当番よろしく」
 愛美たちは私に箒やちりとりを押し付けると、笑いながら教室を出て行った。それを遠巻きに見ていた子たちも、関わりたくないというようにさっさと帰ってしまう。いつものことだ。一人残された私は、一つ一つ机を下げて床を箒ではき始めた。廊下側の列を終え、次の列に行こうと自分の机を持ち上げたところで、引き出しから何かメモのようなものが落ちて来た。拾い上げると、「死ね、消えろ」と油性マジックで乱雑に書かれた字が見える。机を傾けると、同じように悪口の書かれたメモと、飲みかけのジュースのパックや黴びたパンがいくつも出て来る。一つは落ちた衝撃で中身が飛び出し、私の上履きを茶色く染めた。何かが腐ったような嫌な匂いが、足元から立ち込めてくる。茶色く濁った小さな水たまりには、「ゴミ」と描かれたノートの切れ端が沈んでいた。
 どうして、こんな世界で生きていないといけないんだろう。
 汚れた上履きをゴミ箱に放り込んで、教室の隅にある小さな水槽を覗き込む。しばらく掃除をされていないガラス面にはびっしりと苔が生え、中の水は淀んでしまっている。そんな暗い緑の中を、鮮やかな赤が横切る。誰かが縁日で掬った金魚だったが、今では誰も世話をしなくなってしまった。私はそんな金魚がなんだか可哀想で、時々えさをやるようになった。今日みたいな日は、特に。
 独りぼっちの金魚は、大きな体を揺らして窮屈そうに泳ぎ続ける。その動きは、この水槽から逃げ出せる場所を探しているみたいだ。私と一緒で、どこにも行けない。えさをひとつまみ水槽の中に撒いてやると、金魚は水面すれすれまで上がってきて、必死に口を動かし始める。私は下校のチャイムが鳴るまで、その姿をただじっと見つめていた。
 真っ暗な家に帰ると、すっかり冷え切った料理と「今日も仕事で遅くなるのでチンして食べてください」と走り書きされたメモに出迎えられる。最近はお母さんの顔もろくに見ていない。料理に手をつけないまま、自分の部屋に戻る。ブレザーを脱ぎ捨ててベッドに横になると、教室のざわめきがどこからともなく聞こえて来る。悪意に満ちた声たちは、私をゆっくりと押しつぶす。苦しさに耐えられなくて目をつぶっても、暗闇の中には意地の悪い愛美の顔が浮かんでくる。私は何もかもから逃げ出すように、眠りの中に沈んでいった。

「朱莉さん、朱莉さん、起きてください」
 誰かが私を呼んでいる。ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋ではなく、真っ暗な空間だった。狭いのか広いのかもわからないその場所に、朱色の着物を着た小さな女の子が一人立っている。
「よかった、もう目を覚まさないかと思いましたよ」
 女の子は着物の袖をひらひらさせながら、明るく笑った。一面に描かれた鱗のような柄がそれに合わせて輝き、あたりをぼんやりと照らしている。
「あなたは誰?ここは……?」

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