ルリは夜になると水面から顔を出して、僕の知らない歌を唄った。
子守唄のような優しい旋律と清らかな歌声は、僕の魂を遥かな深海の世界へと誘う。蒼い世界に漂いながら、そのまま生簀の横で朝まで眠り込んでしまうこともしょっちゅうだった。
可愛いルリ。魅力的なルリ。日々、愛おしさが加速する。
僕はルリに夢中になった。もうルリのいない世界なんて考えられない。そんな暮らしは水のない砂漠か、もしくは灼熱の地獄だ。ルリさえそばにいてくれれば他には何もいらないと思った。
少しの時間でもルリと離れるのは辛い。僕はあれこれ嘘の理由を重ねては、仕事を休むようになった。もし、ルリの身に何かあったら……と思うと、怖くて外出もままならない。とにかく僕は常にルリと一緒にいたかった。
これまで何人もの女の子を好きになったけれど、こんな気持ちは初めてだった。僕は一体、どうしてしまったのだろう。寝ても覚めても考えるのはルリの事ばかり。
やがて休んでばかりいることを上司に強く咎められた僕は、退職願を提出して会社を辞めた。
無職になった僕はさらに外出しなくなり、買い物にさえ行かなくなった。今の世の中、生活に必要な物は全てネットで買える。外に出なくても日常生活に何ら問題はない。僕にとってはルリと一緒にいることが、常に人生の優先順位のトップを占めていた。
僕は一日のほとんどの時間を、ルリのそばで過ごした。そして時折、生簀の中を覗き込んではルリの姿を愛でた。
体の奥底から湧き上がる、熱く、激しく、暴力的な気持ち。我ながら恐ろしくなる。果たして、この燃えるような感情は本当に恋なのだろうか。
得体の知れない想いの正体を突き詰めて考えると、高い崖の上から深淵を覗き込むようで足がすくむ。
ルリ。
ルリが欲しい。
ルリのすべてが欲しい。
そんな気持ちが高まるにつれて、僕はルリと「ひとつになりたい」と強く願うようになっていた。それは僕にとっては祈りに似た、とても神聖な気持ちだった。
でもルリの体の半分は魚だ。人間の女と同じように抱くことはできない。それに大切なルリを単なる欲望の捌け口にしたくなかった。
独り占めしたいのに、どうしたらいいのかわからない。矛盾した感情に縛られて、ますます身動きが取れなくなる。ああルリ。愛しのルリ。こんなにも愛しているのに。
僕は泣いた。冷たい生簀の縁に額を押し付けて、泣いた。そんな絶望の中、ふいに人魚の肉を食べて八百歳で自害するまで生きた『八百比丘尼(やおびくに)伝説』を思い出した。