小説

『愛しのルリ』緋川小夏(『八百比丘尼伝説』『人魚姫』)

 その魚は異様な姿をしていた。
 海藻のように黒くて長い髪の毛が、白い肌にぺったりと貼りついている。丸く大きな瞳は瑠璃色に煌めき、唇は紅をさしたかのように赤い。胸にはふたつの乳房らしき膨らみがあって、その先端には桜色をした突起が息づいていた。
 けれども下半身は、おびただしい数のウロコで覆われていて足も無い。つまり上半身は人間の姿で、下半身は魚。それは古くから言い伝えられている『人魚』の姿そのものだった。
 ある晴れた秋の日の午後だった。
 有給を取って釣りに来ていた僕は、誰もいない岩場の潮だまりで一匹の異形の魚が打ち上げられているのを見つけた。
 当初、僕はそれをイルカかアシカの子どもだと思った。群れとはぐれて迷い込んでしまったのかもしれない。でも下半身を覆っているおびただしい数の鱗と長い髪を見て、それは違うと確信した。
 体長は1メートルくらいだろうか。咄嗟に抱き上げて、口元に耳を寄せてみた。ぐったりしていたけれど、まだかすかに息がある。よく見ると体のあちこちに傷があって、そこから唇と同じ赤い色をした血が滲んでいた。 
 このままでは死んでしまう。僕は慌てて人魚をクーラーボックスに入れて自宅に連れて帰り、傷の手当てをした。そして元気になったら海へ還してやるつもりで、暫定的に風呂場で飼うことにした。
 瑠璃色に輝く美しい瞳から、僕は彼女に『ルリ』と名付けた。
 最初のうちルリは怯えて、浴槽に張った水の中でいつも小さく震えていた。僕が与える貝や海藻も全く食べようとしない。その姿はとても痛々しく儚げで、見ていると胸の奥がちりちりと痛んだ。
 僕は根気強く世話を続けた。体の傷が癒えてゆくにつれて、ルリは少しずつ動き回るようになった。
 風呂場に様子を見に行くと、水から顔を出して僕が来るのを待っていることもある。やがて食事も僕の手から直接受け取って口まで運び、美味しそうに食べてくれるようになった。
 言葉はなんとなく理解しているようで「ルリ」と名前を呼ぶと、瑠璃色の瞳で僕を見る。ルリと目が合うと嬉しいような哀しいような不思議な気持ちになった。心の奥の一番柔らかい場所が潤って温かくなる。
 できることなら、もっとルリと一緒にいたかった。自宅にいる間は一時も離れたくない。常にルリを近くに感じていたい。そう願った僕は一念発起して、インターネットで巨大な生簀を買った。
 それは強化ビニールでできた丸型の生簀で、通常は錦鯉の飼育や繁殖に利用される物のようだった。僕はリビングに生簀を置きホースで水を半分ほど注いでから、その中にルリをそっと放してやった。
 するとルリは大喜びで生簀の中をくるくると泳ぎまわり、尻尾の先で水面を叩いたりして、フローリングの床を水浸しにした。そのたびにタオルで床を拭いてまわるのは大変だったけれど、嬉しそうに水と戯れるルリを眺めるのは、僕にとっても最高に幸せな時間だった。

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