小説

『ビートルズ』もりまりこ(『変身』『冬の蠅』)

 ひとつの扉を開けて部屋へと向かう。今朝家のドアノブをひねった感触が指のどこかに残っていて、軽くデジャヴュ。
 抱えきれない記憶を持った人達が、リスナーと呼ばれるわたしたちの前に、エピソードを捨てに来る。わたしたちはアドバイスはしない。ただ目を見ながらゆっくりと耳を傾ける。視線をあわせたくないひとは、ソファに横たわってもらって彼らの視界に入らない場所で声を聞く。その話がどんなに汚辱にまみれていようとも、憂さ晴らしのように愚痴のオンパレであっても、平静を保った顔をして聞かなければいけない。そして聞いた後は忘れることに徹する。いつまでも覚えてちゃいけないのだ。
 あなたと出会った。ある日あなたは扉を開けてわたしの前に現れた。あなたは言った。<虹の彼方に>は癖になりますねってひとこといった。温かそうなフィッシャーマンズセーターを着ていたけれどその奥にあるからだはとても冷え冷えとしてみえた。眼が耳があなたのことを記憶したがっていたんだと思う。
 リスナーのルールに反していると思ったけれど、家に帰るまでの電車の中でもわたしはあなたの言葉を一字一句思い出すことに専念しながら、揺られて家にたどり着く。家のドアを開ける時もひとつもその言葉を零さないように覚えていたことを抱えるように静かに歩く、ベッドに入る。
 あのビートルズたちはどうしているだろう。
<気色悪いわ、繭ちゃんのそのべったりとした記憶の仕方>
 継母の言葉が甦る。いま気色悪いのはあんたですとつぶやいて、それよりもあなたのことを思い出す。とても沈黙の多い人だった。ほとんどの人が、喋りたくてうずうずしているのに、あなたはここに来たことが場違いだったかのように戸惑っていた。
 それでもすこしずつ言葉を絞り出していた。
 あなたの唇が開く刹那、声が部屋に漏れた。
「来年」
 らいねん、そう言って間があって微かな溜め息が漏れたような音がわたしの耳をくすぐる。
「こどもが産まれるんです」
 わたしはあなたの眼をみて樫の木のテーブルの上で組んでいる指を見た。
 指は頑なに結ばれて、ぴくりとも動こうともしない。あの頑丈そうな指を頼ってあなたの赤ちゃんは、生まれたての指ぜんぶで握りしめるに違いないことを思って、わたしはおめでとうございますと静かな気持ちで伝えた。
「でも自信がないんですよね」
「父親になられることがですか?」
「ええ、それもありますが、過去があぶりだされるみたいで」
 わたしはだたあなたの眼をみつめて、あなたの言葉を無言で促す。
「子供の頃、僕はどうしてもそのゲームをやめられなかったんです」

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