小説

『ビートルズ』もりまりこ(『変身』『冬の蠅』)

「おめでとうヘラクレスになれたね足穂」って呼びかけようとしたけど、やめた。足穂って呼んだことなんてそれこそ小さかった頃ぐらいだし。大人になってからはわたしを思いっきりバカにしていたと思う。弟の部屋をあとにして、その隣の継母の部屋を覗く。ドレッサーの前にカブトムシがいた。
 でも足穂とは違って、輝きがなかった背中に。マットだったのだ。残念だったねあんなにツヤ感とハリ感いのちだったのにね。昆虫になっても、髪型やアイラインの長さが気になるのか。一寸の虫にも五分の魂と呟いてみる。もちろん声はかけない。この継母とはろくに会話もしなかったし。したくもなかった。
 その後、父親の部屋のドアノブを廻す。妙な音階を奏でた。いるんだろうって思ったらいなかった。いないじゃんって思いながら、ライティングビューローの本棚の硝子の内側にかよわき虫がぺったりと張り付いていた。
 角はあった。硝子の内側に張り付いていたので胸かお腹辺りに腹筋が見えた。
「腹筋もしなかったくせに腹筋つきでよかったね、おめでとう」と呟く。
 昔、台形の面積の解き方がわからないばっかりに、父親にいたいほど殴られた。洗面所まで髪をひっぱられたまま導かれ給湯器にごんとぶつけられた。
 ここからなにかリズムを刻むんじゃないかと思うほどごんごんと。
 わからないことがあると殴る。それは会話のひとつのように、まるで接続詞のように。
 ドアノブをひねると、部屋をあとにした。すこしだけ口角が緩んだ。 
ベランダに出ると家の前を郵便局の制服を着た人が郵便物を持って歩いているのが見えた。世界はなにも変わっていないし、グレゴールとちがってわたしはグレゴールの外にいる人間だから、自力でベッドから起き上がれるし、部屋を出ることもできた。とりあえずそれだけでもおめでとう。

 神奈川の東部あたりに雪が降るかもしれませんと天気予報が昨夜いっていたのを思い出した。雲一つない空が広がっていて空気は乾いていて喉がひりひりしそうな風が吹いていた。遠くで<左に曲がります。ご注意ください>とトラックから音声アナウンスの声がする。部屋に戻ってバスルームの鏡を見た。自分で試しに切ってみた互い違いの前髪は昨日のままだったし、二重の大きさの違う瞼だって唇の色だってなにひとつ変わってみえることはなかった。
 ただわたし以外の家族がザムザ・グレゴールになったという事実だけが白い。
 悲しいでも辛いでもない。ないね。ただただわからない。わからないから、わたしはとりあえず鏡の前で笑おうと思った。道に迷った時は笑うのだ。

 わたしの職場はF市のはずれにあって、その建物は楕円形のクリームイエローのシンプルな平屋になっていた。硝子のドアを開けるといつも低く気にならない音で<オーヴァーザレインボー>がかかってる。そこを訪れる人に希望を持たせるためなのか、入る時と出る時はその曲をみんなの耳をかすめる。

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