まだ居眠り病になる前には幾らかの物語に触れたことがあるけど、そのどれもが嘘に嘘を塗り固めた異質な言葉の羅列にしか見えなかったことは、今も記憶に残っている。
そのなかでも眠り姫の物語は飛び抜けて不可解だった。
真実を語っているようで、何か大切なことをひた隠しにしているように思えてならなかった。けれど、僕は眠り姫に出てくる茨に囲まれた城というものには、強く惹かれるものがあって憧れた。だから僕の世界というのはもしかすると、そんな幼少の頃の秘めたる羨望と懐疑が具現化されたものなのかもしれない。だって現の世界ではどうしたってこんな幻想的な景色は作り出せない。
棘という何者もを拒み傷つけてしまう茨に囲まれ、眠りという鎧を着せられながら孤城に幽閉された美しいお姫様っていうのは、なかなか官能的な響きすら感じられる。
御伽噺だなんて子供染みた表現で隠されているけど、あの話には紛れもなく大人の秘密が隠されている。
ベッドの上でぼんやりそんな眠り姫談義をひとりで展開していると、ふいに髪の毛を撫でられる感触がした。
ふわりと掬うように撫でられた冷たい手の温度とともに、薔薇の香りがいっそう濃くなるのを感じた途端、瑞瑞しさを増した色香が漂い、その香りは僕の鼻腔を擽った。
「おはよう茨城(いばらき)。今日も忌々しいほどお前の髪の毛は光り輝いているわね」
僕の髪の毛を梳(す)きながら(夢の世界だけど)目が覚めるほど美しい声音で悪態をつき、新雪のように真っ白な肌を露にする大胆な漆黒のドレスを身に纏う妖艶な女性が、僕の枕元に腰掛けていた。
闇夜のように真っ黒な髪は床に届くほど長く、そして毛先まで艶(つや)やかに潤っている。冷酷そうな熱を感じさせない真紅の瞳に微かな笑みを湛える彼女は、僕の髪の毛をいつまでも弄(いじ)くり弄(もてあそ)び続けている。
「おはよう十三」
朝も昼も夜もないこの世界で、おはよう。という言葉が果たして正しいかどうか分からないけど、僕と彼女…僕が十三と呼んでいる美貌の彼女との挨拶は、とりあえずおはようで定着している。
「いつも言っているけれど、その十三という呼び方どうにかしてくれないかしら?」
僕の頬をつつきながら、あら。相変わらず肌も滑らかで腹が立つわ。と尽きることを知らない悪態を漏らす彼女は、さして呼び方というものを気にしてないように見える。
そういえば出会うたびにいつもそんなことを言われているけど、彼女がそういう態度だから、僕も対応を改めようとしたことがなかった。