小説

『河童の女房』緋川小夏(『河童』)

 あまりにもベタな展開に、わたしは下を向いて少しだけ笑ってしまった。すると、わたしの態度に逆上した奥さんは顔を真っ赤にして涙目になり、髪の毛を逆立てて小刻みに震えはじめた。
「私に赤ちゃんができないのは、あんたのせいよ! どうしてくれるのよ、責任取りなさいよ!」
「それは、ご夫婦の問題です。わたしには関係ありません」
「こいつ、すました顔でよくも……許さない。絶対に」
 あ、と思った瞬間に髪の毛を掴まれた。奥さんは上半身をカウンター乗り上げて手を
 伸ばし、意味不明な言葉を叫びながらわたしの長い髪を力任せに引っ張った。
「痛い! 痛い! ちょっと! やめて!」
「おまえのせいだ! 責任を取れ!」
 まさに絵に描いたような修羅場になった。
 気がつくと隣にいた同僚は目を丸くして固まってしまい、奥さんは駆け付けた警備員に抑え込まれて大声で泣いていた。その様子を大勢の野次馬達が遠巻きに見守っている。
 やれやれと思って頭に手をやると、掴まれていた髪の毛がごっそりと抜けた。
 本当に今さらだけど、あのときの奥さんの気持ちが今なら痛いほどわかる。同情ではなく同じ女として理解できる。わかったところで、過去を変えることはできないけれど。
 その後、淳悟は左遷された。
 知らない社名の子会社に出向となり、やはり聞いたことのない地方の小さな出張所で働くことになった。そして慰謝料を支払って、淳悟は奥さんと離婚した。
 わたしは派遣の仕事を辞めて淳悟の後を追い、親には勘当された。勘当されたのは、淳悟も同じだった。友人達は事の顛末を酒の肴にして盛り上がった挙句、わたしから去って行った。行く所もなく、頼れる人もいない。知らない土地に二人きり。
 退路を断たれたわたしたちは話し合って、籍を入れない事実婚の状態で一緒に暮らすことにした。それと同時に、わたしは長かった髪を短く切った。それ以来ずっとショートカットだ。
「ごめん、ちょっとシャワー浴びてくるね」
 わたしは股間をティッシュで軽く拭ってから立ち上がり、淳悟をリビングに残してバスルームに向かった。熱いお湯で情熱の残滓を洗い流す。体の奥では痺れるような快感がまだ燻っている。
「おまたせ」
 気持ちを切り替えてリビングに戻ると、そこに淳悟の姿はなかった。
「あれ? 淳悟?」
 呼びかけてみても返事はない。心配になって家中を探してみたけれど、やっぱり淳悟はどこにもいなかった。
 不安な気持ちが体の奥から湧き上がる。慌ててウッドデッキに飛び出して淳悟を探した。雨上がりの庭の土には見慣れない形の足跡がいくつも残っていた。

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