小説

『河童の女房』緋川小夏(『河童』)

 どうやら平山さんが遭遇したときの淳悟は、人間の姿をしていたようだ。きっと手に持っていた山女魚は、わたしへの土産だったのだろう。それを聞いてホッとするのと同時に、とてもやりきれない気持ちになった。
「したっけ、吉川さん何も言わずに、いきなり山に向かって走り出したんだ。すぐに後を追いかけたんだけども、ちょうど分かれ道にある道祖神のあたりで姿を見失っちゃって」
 全力疾走した平山さんは一気に酔いが回って、その後はしばらく立ち上がれなかったそうだ。やっとの思いで這うように自宅に帰り、朝になるのを待って、わたしの元に報告に来てくれたのだった。
「あの、それで警察には……?」
 わたしが訊くと、平山さんは怯えたように首を横に振った。
「こう言っちゃぁ何だけど……奥さん、怒らないで聞いてよ。おれが思うに、あれはもうこの世の者ではないな……あの時の吉川さんの表情は生気が無かったし、生きた人間のオーラって言うの? それが全く感じられなかったんだ。今はお盆だから、たまたまあの世から帰って来たところだったのかな……なんて、失礼だけど、つい考えちゃってよ」
 平山さんは慎重に言葉を選びながら、煙草を咥えて火を点けた。
「でも、わたしは……わたしは、主人は生きていると思います」
「そうか、そうだよなぁ……」
 何度も首をかしげながら平山さんは自宅へと戻って行った。ウッドデッキには煙草の残り香が消えずに、いつまでも漂っていた。

 
 手を繋いだ淳悟とわたしは、ある光景を見つめている。
 そこには動物の姿にされた人間たちが、業火の中にひしめいていた。むせ返る獣の臭い。阿鼻叫喚の声。
 恐ろしくなったわたしは、水掻きのついた手を強く握る。すると桜の花びらが散るように、淳悟の目からはらはらと涙がこぼれ落ちた。
 わたしはそれを指先でそっとすくう。そしてわたしも泣きながら夢から醒める。

 それからわたしは体調を崩して、酷いときは寝込んでしまうようになった。食欲は落ちて体はやせ細り、家事をこなすのもしんどい。いつもだるくて、ふと鏡に映った自分の顔色に驚いてしまうくらいだった。
 淳悟は来ない。わたしは深いため息をついて、何気なく視線をサイドボードに移した。
そこにはハネムーン代わりに行った北海道旅行の写真が飾られてあった。フォトフレームの中の淳悟は太陽みたいに屈託のない笑顔を浮かべて、わたしの肩をしっかりと抱いている。
 淳悟って、こんな顔だったっけ……。
 この頃、人間だったときの淳悟の顔を思い出せなくなっていた。目を瞑って一生懸命、思い出そうとしても駄目だ。それだけではない。夢と現実の境目がぼやけて自分の体が自分のものではないような、ふわふわとした心許ない浮遊感に支配されていた。
 もしかしたら全てが夢だったのではないか、と思うときがある。

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