小説

『河童の女房』緋川小夏(『河童』)

 夢を見て、泣きながら目が覚めた。
 涙が頬を伝い耳の窪みに到達するのを確かめてから、再び目を閉じる。潮はすでに遥か遠くに引いてしまって、もうわたしを沖へと連れて行ってはくれなかった。
 軒下に突き出した換気扇カバーに雨粒があたって、ぽったん、ぽったん、と一定のリズムを刻んでいる。布団に入ったときよりも雨脚が強くなったようだ。
 淳悟が姿を消したのも、こんな雨の日だった。
 わたしは目を瞑り、淳悟がいなくなった日のことをゆっくりと思い出してみた。
「いってきます」
 淳悟はそう言って、慌ただしく仕事へと出かけて行った。いつもと同じ朝の、いつもと同じ光景。変わったことなんて何もなかった。わたしは濡れた手をエプロンで拭きながらサンダルをつっかけて、ウッドデッキから淳悟の背中を見送った。
「いってらっしゃい」
 その日の夕方、いつもの時間を過ぎても淳悟は帰って来なかった。心配したわたしは何度も携帯に電話をした。呼び出してはいたけれど、淳悟は出ない。その後も雨音を聴きながら、まんじりともせずに夜が明けた。
 こんなことは初めてだった。いつも帰りが遅くなるときは必ず電話をくれるし、無断外泊をするような人ではない。それにこの土地に夜通し酒を酌み交わす相手など、わたしの他に誰もいないはずだった。
 朝まで待ってみたけれど、淳悟から連絡はなかった。わたしは淳悟が、きっと何らかの事故か事件に巻き込まれたのだと思った。
 その日は土曜日だったので、午前八時を過ぎるのを待ってから平山さんの家へ電話をかけた。平山さんは地域の青年団の団長さんで、面倒見が良く人望も厚い。平山さんはすぐに青年団の人を集めて、わたしと一緒に淳悟を探してくれた。
 職場(出張所なので従業員は淳悟一人しかいない)や通勤路、そして淳悟が立ち寄りそうな店や場所を皆で手分けして探した。それでも手がかりになるようなものは何も見つからなかった。いつしか雨は止み、薄日が差し始めていた。
 午後になって空の弁当箱が見つかった。それは確かに、わたしがいつも淳悟に持たせていたアルミ製の弁当箱だった。弁当箱を包んでいた青いペイズリー柄のバンダナと木製の箸箱は見つからなかった。
 弁当箱が落ちていたのは沼へと続く分かれ道に祀られた道祖神の前だった。雨上がりの濡れた草の上に、ぽつんと置き去りにされていた。
 わたしは何人かの人と一緒に沼まで行ってみた。沼は濁った水面を取り囲むように鬱蒼とした木々が生い茂り、昼間でも薄暗い。ひと通り探してみたけれど、そこに淳悟の手がかりとなるようなものは何もなかった。
 夕暮れの帰り道、わたしは警察に寄って捜索願を出した。すると行方不明になったのが成人男性であり、自殺や事故・事件に巻き込まれた可能性は低いとの理由から積極的な捜索は期待しないでほしいと、遠まわしに言われた。
 それでも何もしないよりましだと思い、とにかく届けを出して、わたしは知らない道を一人で歩いて帰路に就いた。
 淳悟は今どこで何をしているのだろう。
 こんなことになるのなら、もっと優しくすれば良かった。もっと素直になれば良かった。もっともっと二人の時間を大切にすれば良かった。後悔ばかりが心を支配する。わたしは一人、途方に暮れた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9