小説

『河童の女房』緋川小夏(『河童』)

 淳悟がどこから来て、どこに帰ってゆくのかは知らない。もし、わたしが淳悟に内緒でこっそり後をつけたりしたら、もうここへは来てくれないだろう。
 そして二人で蛍を見たその夜が、この家で淳悟と一緒に過ごした最後の夜となった。

 お盆の季節になった。
 ゆうべは久しぶりに夜半過ぎから雨になった。けれども何故か淳悟は、わたしの元に姿を現さなかった。
「吉川さん」
 朝霧に煙る山の稜線を眺めていたら、庭先で声がした。垣根代わりに植えられた金目柘植の影からひょっこりと顔を出したのは、青年団の平山さんだった。
「平山さん……おはようございます。どうかしたんですか」
「いやいや、朝早くに悪いね。ちょっと気になることがあったもんだから……」
 平山さんは洗いざらしのTシャツに短パンといういでたちで、少し薄くなった髪には寝ぐせがついたままだった。お盆で仕事が休みだからか、無精ひげまで生やしている。
「気になること? 気になることって何ですか」
 わたしが尋ねると、平山さんはウッドデッキの階段を上がって近くまで来た。そして何かを話そうとした途端、今度は急に口ごもってバツが悪そうに頭を掻いた。二日酔いなのか眠たそうな顔からは、ゆうべのお酒のにおいが漂っている。
「あのさ……実は、ゆうべ見ちゃったんだよ」
 ポケットから取り出した携帯灰皿を指先で揉みながら、平山さんが口を開いた。
「何を見たんですか?」
「行方不明になっている、お宅の御主人」
 胸の奥が、どきん、とした。
「ゆうべ知り合いのとこで飲んだ帰りに、山の方から誰かが歩いて来るのが見えたんだ。こんな真夜中に誰だろうって思ってさ、よぉーく目を凝らして見たら、それが吉川さんだったのよ」
「主人……ですか?」
 わたしの問いに、平山さんは神妙な面持ちで大きく頷いた。
「ほら、この辺の道さ外灯も無くて夜は真っ暗になるべ? だからおれ、酒飲みに出るときは必ず懐中電灯を持ち歩いてんだ。それで吉川さんの顔さ照らして、しっかり確認したっけ間違いねぇ」
「そうですか……」
「でもな、それがおかしいんだ」
 わたしは固唾を飲んで、平山さんの話の続きに耳を傾ける。
「そのときは雨が降っていたのによぉ、吉川さんてば傘もささずにずぶ濡れのままで歩いていたんだよ。手には笹の葉に結んだ魚を持ってさ。たぶん山女魚だな、あれは。それはまぁいいとして気になったのは、頭から体にかけて無数の藻だか葦の葉みたいなものがびっしり貼りついていたことなんだ。まるでたった今、沼から上がったばかりみたいでさ」

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