淳悟は「いらない」と答える代りに、首をゆっくりと大きく横に振った。そして手に持っていたバンダナから収穫した枇杷を取り出すと、洗いもせずに、いきなりむしゃむしゃと食べ始めた。たちまち部屋の中は熟した果実特有の甘い香りに満たされた。
水掻きのついた指先で器用に皮を剥き、嘴の先で果肉をこそげ取りながら食べて種は棄てる。その繰り返し。見る見るうちにテーブルの上には枇杷の皮と種の山ができた。
わたしは呆気に取られながら、その様子を眺めていた。よく見ると顔つきや、しぐさの端々に、淳悟の面影が見え隠れする。するとそれに気づいた淳悟はチョイチョイと手招きして、わたしを自分の近くに呼んだ。
淳悟は体の向きを変えて、わたしのパジャマのズボンとショーツを二枚一緒に脱がせた。そして用心深く濡れ具合を確認して、いつもより少し乱暴に、後ろから、わたしを抱いた。
かつて、淳悟とわたしは同じオフィスビル内で働いていた。
淳悟は大手建設会社の社員、わたしは派遣の受付嬢で、いわゆる不倫と呼ばれる間柄だった。
先に声をかけてきたのは淳悟のほうだった。真面目そうに見えて実はかなりの天然だった淳悟は食事に行こう、飲みに行こうと、何度もわたしを誘った。
最初のうちは適当な理由をつけて断っていたけれど、根負けして一度だけのつもりで食事に行った。すると思いがけず会話が弾み、その屈託のない笑顔と明るい人柄に惹かれて実にあっけなく、わたしは淳悟に恋をしてしまった。
淳悟が既婚者であることは、付き合うようになってから知った。それでもわたしの気持ちは変わらなかった。家庭内では喧嘩が絶えず、夫婦としてはもう終わっていると、淳悟は苦い顔をしてわたしに言った。
奥さんの存在は自分には関係ないことだと、わたしは自分に言い聞かせていた。いずれ淳悟は必ず、わたしを選んでくれる。根拠のない残酷で浅はかな自信が、わたしにはあった。
ある日、受付に向かって脇目もふらずに突進してきた中年女性の姿を見て、わたしはすぐにそれが淳悟の奥さんだとわかった。
「あなたが田崎紗和子ね?」
「そうですけど……失礼ですが、どちら様ですか」
「吉川淳悟の妻です」
妻です、の箇所だけフォルテシモだ。奥さんは受付カウンターの前に立ち、鬼の形相でわたしを睨みつけながら言った。
「あなた他人様の亭主を寝取っておきながら、一体どういうつもり」
その瞬間、ロビーの空気が凍り付いた。
「どういうつもりって……わたしはただ、決められた受付の仕事をしているだけです」
わたしが言い返すと、奥さんの顔がみるみるうちに赤くなった。とにかく弱いところを見せたら負けだと思った。
「……このドロボー猫」
「え、ドロボー猫って」