小説

『パラケルス・ルビドシアナ』末永政和(萩原朔太郎『虫』)

 闇雲に似たような単語を思い浮かべてみるが、いっそう答えが遠のいて行く気がする。仕方なしに、私は再びスマートフォンを取り出して「ルビドシアナ」と検索窓に打ち込んでみた。求める言葉の片割れが、何らかのヒントにつながるかもしれない。
 ルドビシアナ。表示された検索結果は、微妙に異なる単語だった。植物の名前らしい。正式にはアルテミシア・ルドビシアナ。銀色がかった緑色のハーブで、ヨモギの一種らしいが、そもそもヨモギがどんな見た目だったか思い出せない。
 アルテミシア・ルドビシアナ。こんな植物は見たことも聞いたこともない。アルテミシアは神話に出てくる名前だった気がする。月の女神だったはずだ。同名の画家もいた。ホロフェルネスの首を描いた女流画家だ。しかしルドビシアナは初めてだ。ルビドシアナに比べて、どうにも響きが悪い。偶然の一致でしかないように思う。
 突然の激しい雨音が、思考を妨げる。ぶつぶつ文句を言いながら、妻がビニール袋をぶら下げて戻ってくる。
「なあ、さっき言ってたパラコって」
 そう言うと、妻は不思議そうに首をかしげて「パラコ? 何の話?」とつぶやいた。

 その日、妻はめずらしく上機嫌だった。から揚げ弁当をほおばる私の横で、あれこれと日中の出来事を語り、私の反応が薄いと言っては笑っているんだか膨れているんだか分からないような顔をした。妻には月に数回こういう情緒不安定なときがあって、普段はほとんど会話もないのにやたらと喋りたがる。話の内容もころころと変わり、話した内容を覚えていないことも多々ある。喋ったそばから忘れていくような塩梅で、付き合わされるほうとしてはたまったものではない。私は早々にリビングを後にし、風呂へ向かった。
 のべつまくなし喋り続ける妻も妻なら、適当な返事ですべてやり過ごそうとする私も私なのだろう。思いやりなど欠片もなく、互いが互いの向こうに何かを見ているような気さえする。平静であればそれはそれでバランスが取れているのだが、一度どちらかがずれてしまうと、その歪みは果てしなく広がっていく。そうやってすれ違ったまま互い違いに歩き続けた果てに、結局は背中と背中に結びつけられたゴムで引き戻されてしまう。歩いた距離が長ければ長いほど、痛みも大きくなる。
 騒々しいバラエティ番組の音声に混じって、妻の笑い声と独り言とが脱衣所まで聞こえてくる。自分がいないときもこんな風に一人で喋り続けているのかと、暗い気持にとらわれる。日を追うごとに、妻は少しずつおかしくなっていく気がする。そうと分かっていて見て見ぬ振りをする私も、どこか壊れているのだろう。坂道を転がる妻は、もう立ち止まることができないのかもしれない。苦しみや悲しみの色が見えないのは、壊れるということが妻の精神にとって安楽だからなのかもしれない。
 例の言葉を思い出す気力もなくなって、私は湯船に顔の半分を沈めて、鼻からあぶくが浮かび上がるのをぼんやり見つめていた。結局のところ、私の日頃の妄想も現実逃避に過ぎないのだろう。
 蛇口の先から水滴が落ちるのを見るともなく見ていると、妻の足音が近づいて来た。ねえあなた、知ってる? 私が何をしているかなどかまうことなく、妻は話しかける。私は黙って、その場をやり過ごそうとする。妻が私に話しかけたのか、それとも別の何かに語りかけたのか私には分からない。
 それでも妻は私の存在を認めて、風呂場の扉の向こうで足踏みをしながら「上野にね、パルミジャニーノが来るらしいの」と続けた。

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