小説

『パラケルス・ルビドシアナ』末永政和(萩原朔太郎『虫』)

 そこまで考えたところで、我にかえって周りを見渡した。店に入ってから三十分が過ぎている。昔から考え事をし出すと周りが見えなくなる性質で、それで何度も失敗を重ねてきた。
 このとき私が恐れたのは、知らず知らずパラケルス・ルビドシアナと声に出していたのではないか、ということだ。右隣の女性が、チラチラとこちらを見ている気がする。店員が水差しを持ってウロウロしている。水を注ぎ足してくれるサービスなど、今までこの店では受けたことがない。
 スマートフォンをいじる者もいる。ノートパソコンを開いている者もいる。誰も彼もが私の言葉を盗もうとしているような気がして、そんなわけがないとは思いながらも居心地の悪さを拭えなかった。
 私は急いで立ち上がり、喫茶店を後にした。
 陽の落ちた街並は、朝見たよりも小さく感じられる。空気が薄いのか湿度が高いのか分からないが、体が重く、影を引きずっているような気分にとらわれる。空を見上げると、奇妙な雲がため池のよどみのようだった。雨が降りそうだ。
 選挙が近いらしく、街頭演説の高らかな声が響いてくる。「ハラコです、ハラコです、ゲンシと書いてハラコです。ハラコススムをお願いします」
 おそらく漢字で「原子進」と書くのだろう。原発推進派を略したような名前だが、本人はむしろ反対派らしい。得意げにスピーカー越しに語りかけるが、まともに耳を傾けている人は少ない。私もやかましい演説を受け流して、足早にそこを立ち去る。パラケルス・ルビドシアナ。大丈夫、忘れていない。考え事の最中に別のことを考えてしまう、悪い癖が出てしまった。紛らわしい名前をしやがってと心のなかで毒づいた。
 マンションまでは、喫茶店から歩いて三分もかからない。玄関を開けると、案の定妻が不愉快そうな顔をしていた。
「あの演説、どうにかならないのかしら。馬鹿みたいにパラコ、パラコって名前を繰り返してばっかり」
「パラコじゃなくてハラコだろ。ゲンシと書いてハラコって言ってた」
「ゲンシ……」
 理系音痴の妻は、「ゲンシ」と「原子」が結びつかないらしい。大方、「原始」あたりを想像しているのだろう。
「腹減ったな、夕飯は何?」
 聞きながら鼻をひくつかせるが、食欲をそそるような匂いはどこからも漂ってこない。花でも飾ったのか、甘ったるい匂いがかすかに流れてくるばかりだ。
「やだ、外で食べて来てってメールしたのに」
 あの言葉に気を取られていたせいで、メールの着信に気づかなかったらしい。あの言葉。パラコ……違う、あれは何だっただろうか。そもそも妻は、なぜ「パラコ」などと聞き違えたのだろうか。
 物問いたげな表情を不満のあらわれと解釈したものか、妻は仕方なさそうに「ちょっと待ってて、お弁当かなにか買ってくるから」と言った。作ってはくれないらしい。
 妻が出かけたのをいいことに、私は再びさっきの疑問と向き合う。パラケスト・ルビドシアナ。微妙に違う気がする。ルビドシアナは間違っていないはずだが、パラケストはどうも座りが悪い。パラストス、これも違う。妻のせいだか駅前の立候補者のせいだか分からないが、魔法の言葉はすっかり頭から抜け落ちていた。

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