小説

ネイキッド! ネイキッド!』十六夜博士(『裸の王様』)

 思い残す事なんてない――。
 だが、そう思っていても、実際にその場に立ってみると思いのほか高所である事に、体が本能的に強張るのがわかった。海からの風が、僕の無防備の身体を凍えさせる。
 遥か眼下の黒い突起が、白波に洗われては消え、引き潮とともに顔を出している。あそこにぶつかって、僕はもうすぐバラバラになる……。
「死ぬつもりですか?」
 意を決しようとするまさにその瞬間、後ろから、突然の声がする。しかし、僕が今まさに行おうとしている行為を止めたいなどという意思は感じられない。それほどに冷静な声だ。僕は体を反転させた。そこには、僕と同じ40代ぐらいと思われる中年男性が佇んでいた。だが、僕と全く違い、全身から品を醸し出している。着ているものはシンプルだが、高価だとわかる。口元の髭が綺麗に整えられている。着古したファストファッションで身を固め、無精髭を生やした自分と対照的だ。首に掛けた上物と分かるマフラーが温かそうだった。
「借金や犯罪から逃げるためではない。あなたは自分の才能に悩んでいる。自分は才能がない。だから、死ぬ。そう思っていませんか?」
 図星だった……。
 僕は、小説を書き続けてきたが、全く評価されていなかった。いつかは評価されると信じて、20年以上になる。才能がない事は分かりすぎるほど分かった。だからと言って、他の仕事をする気にもなれなかった。40過ぎの独身男がこれから新しい事に挑戦する意味なんかあるものか――。待っているのは、ただ、口に糊するだけの生活。ならば、死んだ方がマシだ。幸い、両親はすでに他界していて、僕の死を悲しむ家族はいない。
「なぜ……、わかるんですか?」
「風貌かな……。さらに、あなたは作家だ」
「……」
 その男の推察があまりに凄いので、僕は言葉を失った。
「私の代わりに、小説を書きませんか?」
「あなた、誰です?」
「夢幻童子(むげんどうじ)……」
 作家を目指すものなら知らない者はいない名。だが、本当だろうか……?とも思う。
「あなたは私が夢幻童子であることを疑っていますね。まあ、当然だ。騙されたと思って、この夢幻童子のメールアドレスを使って、編集担当にあなたの小説を送るといい。編集担当のメールアドレスも書いてある。そうすれば、私が本物かどうかわかる」
 僕は、ヨロヨロとその男に近づき、その男が差し出す紙片を受け取った。
「今日から君が夢幻童子だ」
 男は自分のマフラーを取ると、僕の首にそれを巻いた。僕はブルブルと震える手をマフラーに当てる。こんなに温かいマフラーは初めてだ――、と思った。

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