男はニヤリと笑うと、ヒラリと反転した。胸元の金のクルスが踊る。そして、振り向く事なく、去っていった。
夢幻童子は、いま最も売れている作家だ。出す小説、出す小説、100万部は軽く売れてしまう。にもかかわらず、夢幻童子はメディアに全く現れず、何者なのか全く分かっていなかった。ある編集担当としか、コミュニケーションしておらず、その担当者も本人に直接会ったことはない状態。20年ほど前に、夢幻童子を育てた編集者が残したメールアドレスを通じて、現在の編集担当が連絡する形態を取っていた。夢幻童子を育てた編集者はすでに亡くなったのだが、夢幻童子は人に会うことが嫌いな性格で、亡くなった編集者以外とは顔を合わせていなかった。その結果、夢幻童子が誰なのか今では誰も知らない。夢幻童子の正体を追っていたゴシップ記者が相次いで殺人事件に巻き込まれたことから、夢幻童子の正体を探すと殺されるという都市伝説まで生まれていて、積極的に正体を暴こうとするものは少ない。
僕はひとまず死ぬことを辞めた。
自分が夢幻童子になるってどういうことか知りたかった。これまで味わいたくても味わえなかった、売れっ子作家という人生。それはいかなるものなのか。それを知ってからでも死ぬのは遅くない。仮に、男の話が嘘だったら……。
尚更いい――。この世の薄情さに全く未練なく死ぬことができる。僕は、家に帰ることにした。
家に帰ると早速、夢幻童子のメールアドレスにログインした。これまでの履歴が残っているかと思いきや、メールボックスは空だった。夢幻童子を誰かに譲るので、メールボックスを空にしたのか、そもそも冗談で作ったアドレスなのか、わからない。まあ、いい――。僕は、最も自信のある最新作を添付し、編集担当のアドレスにメールした。何を書いていいかわからないので、メッセージは空白のままにした。
「あー、あっ……」
僕は掛け声とともに両手を挙げて伸びをすると、胡座から仰向けに寝転がった。極度の緊張から放たれた解放感。それもそのはず。つい数時間前には死のうとしていたわけだ。いつも見る白い天井。
――俺が死のうが生きようが白いんだな……。
しばらくボンヤリ眺めていると、死から解放されたせいか、僕は深い眠りに落ちた。
翌日、目を覚ますと、すでに昼過ぎだった。死のうと思った日って、死んだように眠れるんだ――。僕は妙な気持ちになった。
――返信は来ているだろうか……?
昨日、夢幻童子として送った原稿がどうなったか気になり、メールを確認する。昨日の今日ではまだ返信はないだろうと思いながらも、チェックせずにはいられなかった。予想に反して、すでに返信がある。しかも、午前のタイムスタンプだ。
――早いな……。
『夢幻童子先生、竹中でございます。原稿お待ちしておりました。いつもながら素晴らしい作品で、一瞬で読了致しました。今までと一気に作風を変えてくる斬新さに感服しております。……。』