小説

『パラケルス・ルビドシアナ』末永政和(萩原朔太郎『虫』)

 その日の仕事は外回りが多く、移動中はずっとスマートフォンに記録した「パラケルス」という単語とにらみ合っていた。昨日の夕方のように周りの視線を意識することもなく、ただその五文字に没入していた。いろいろ可能性を考えてみたが妻が言葉を奪っていったという疑惑は深まる一方で、なぜそんなことをしたのかが気に掛かっていた。どんなメリットがあるというのか。それほど重要な言葉だったというのか。
 仕事を終えると、そのまま真っ直ぐ家に向かった。駅前では相変わらず選挙の演説が騒音を撒き散らしている。
 通りからマンションを見上げて、自分たちが住む部屋に灯りが付いていないかを確かめる。暗いままだが、カーテンで灯りが遮られているだけかもしれない。妻がいてくれることを祈ってエレベーターに乗り込もうとしたとき、またあの言葉が、電流のように脳裏を駆けた。パラケルス・ルビドシアナ。なぜ今になってまた思い出すのか、迷惑ですらあった。この言葉のせいで、何かがおかしくなっているような気がする。天啓とさえ思ったはずの言葉なのに、今やそれは疫病神でしかなかった。
 パラケルス・ルビドシアナ。パラケルス・ルビドシアナ。一度頭を侵食したその言葉は、まるで増殖でもするかのように無意識のうちに何度も繰り返された。寄生虫に脳を乗っ取られた芋虫のような気分だった。
 玄関を開けても、廊下の電気をつけても、妻の姿はなかった。どれだけ探しても、名前を呼んでみても、妻はあらわれてはくれなかった。そして妻の不在を嘆くべきなのに、私はパラケルス・ルビドシアナとつぶやくのだった。
 前にネットで検索したのはルビドシアナという後半の言葉だけだった。パラケルスという単語をパソコンで調べてみると、「パラケルスス」という言葉が表示された。十五世紀末に生まれたスイスの医師で、錬金術士や神秘思想家としても知られているらしい。万物は水銀、硫黄、塩からなると主張し、アヘン剤の開発でも名を残している。後世にはフィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムという名も伝わっている。このうち「ボンバストゥス」という部分には、パラケルススの生前のイメージから誇大妄想狂という意味が与えられている。本人の死後、あずかり知らぬところでこの長大な名前が広まった。
 パラケルス・ルビドシアナ。これに似た単語を繋ぎ合わせれば、パラケルスス・ルドビシアナということになる。偉大なる狂人の、銀緑色のハーブ。パラケルススはアヘンに関わった人物だから、あるいは麻薬のような意味を持つのかもしれない。
 マウスから手を離して、私は天をあおいだ。いったい何をやっているのだろう。これこそ妄想そのものではないか。妻が消えてしまった事実をどこかへ追いやって、私は何の実りもない行為に没頭している。
 その晩、私は夢を見た。妻が水銀を顔に塗りたくっていた。
「昔の人はね、水銀が入った白粉を使っていたの。肌の表面の悪いものが、ぼろぼろと崩れ落ちていくんですって」
 危ないとさとしても、妻はその手を止めなかった。あたりからは硫黄の匂いが漂っていた。化粧台の三面鏡は互いを映し合って、無数に連なる妻の顔が笑っていた。砂時計がさらさらと音を立てて、もうじき尽きてしまいそうだった。ひっくり返そうとしても、私の手は届かない。パラケルス・ルビドシアナ。鏡の向こうで妻が小さくささやいた。

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