小説

『パラケルス・ルビドシアナ』末永政和(萩原朔太郎『虫』)

 いつの間にか部屋の電気が消えていた。私にかまわず、妻は布団に入ったのだろう。落ち着いて眠りについたのなら邪魔しては悪いと思い、私はビールを取り出してコップに注いだ。泡立ちが悪いのは、冷えていないからだろうか。琥珀の名を冠した、季節限定のビールだった。太陽の光を閉じ込めたような、オレンジ色の琥珀。そのなかで永遠の眠りに浸かる虫の姿が思い浮かんだ。
 パラケルス・ルビドシアナ。ようやく思い出した。部屋には自分しかいないのだから気にすることはない。私は電話機の横の小棚からメモ帳とペンを取り出して、その言葉を書き出した。はじめて明確な形を成したその言葉は、奇妙な存在感をもって私の前にたたずんでいた。パラケルス・ルビドシアナ。声に出したが何かが起こるわけでもなく、後には沈黙が続くばかりだった。

 翌朝目を覚ますと、目覚まし時計が鳴るちょうど一時間前だった。パラケルス・ルビドシアナ。忘れていないことに安堵し、再び目を閉じる。そのまま耳を澄ませるが、生活音は一切しない。妻はもう仕事に出かけたらしい。
 生ゴミの回収日だからか、カラスがけたたましく鳴いている。脳に直接響いてくるようなその音が不愉快で、窓を閉めてテレビをつけた。朝の情報番組もそれはそれで騒がしく、新たに始まるバラエティ番組を紹介していたかと思えば、間を置かずシリアスなドキュメンタリータッチの特集に切り替わる。BGMはヘンデルの「パッサカリア」だ。螺旋のように繰り返されるメロディが耳にさわって仕方なかった。
 ベッドに横たわったまま手を伸ばして、床に転がっていた鞄を引き寄せる。スマートフォンが入れっぱなしになっているはずで、会社へ行く前に充電しておかなければいけない。そういえば昨晩、夕食のことで妻がメールを送ったと言っていた。スマートフォンを確認するが、特に通知は来ていない。メールアプリを起動しても、妻からのメールは見当たらない。きっと勘違いだったのだろう。
 そうだ、メモ書きのことを忘れていた。リビングでビールを飲みながらメモ帳に記入したのは覚えている。書き記した紙を保管するために破ったのも確かだが、それをどこにしまったか思い出せない。
 メモ帳に挟まったままなのかもしれない。電話機の横に戻したはずだが、しかし肝心のメモ帳が見つからない。テーブルのうえに置き忘れて、妻に見つかったのか。ゴミ箱に捨てられたのかと探してみたが、やはり見当たらない。妻が外に持ち出したのだろうか。しかし何のために? 自分以外の誰にも理解できないであろう言葉から、妻は何かを感じ取ったのだろうか。
 握りしめていたスマートフォンに目を落す。こんなことで妻にメールを送るのは馬鹿げているだろうか。
 それでも私は我慢できず、スマートフォンのメールアプリを起動していた。しかし妻にメールは送れなかった。アドレスが分からなかったのだ。
 そんなはずはない。妻とはこれまでずっと、メールでやり取りしていたのだから。誤ってアドレス帳から削除してしまったとしても、メールの履歴は残っているはずだ。しかしそれも跡形もなく消えていた。メールアドレスばかりか、電話番号など妻に関する一切の記録が消え失せていた。

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