小説

『ささくれ』室市雅則(『桃太郎』)

 気が急くばかりで、前に進まない。
 鬼たちは濡れることなど気にせずに、こちらに向かって来る。
 潮に乗ったのか、小舟はぐんと前に進み、鬼たちとの距離が離れた。
 もう追いかけて来ない。
 安心をしたからか、思い出したように疲れと痛みを感じた。海水で口をすすぐと、中が切れているのか沁みて仕方がない。水を吐き出すと海面に赤いクラゲのように浮かんだ。
 浮遊する血の混じった唾液は、おれの複製のようだった。
 波に揺れて、漂うだけ。
 鬼を二匹斬っただけでは、おれに居場所は与えらないだろう。
 むしろ、鬼たちは復讐の為に、乗り込んで来るかもしれない。
 きっとおれは張本人として、最も酷い目に遭うだろう。
 あれ? そうか。おれには居場所が無いのだ。
 だったら、おれは村に帰る必要はない。そうすれば、村は襲われたとしても、おれはそこにいないのだから関係がない。死なずにすむ。
 そもそも、おれを鬼ヶ島へ派遣し、鬼を殺させたのは、両親であり、村の連中だから、その報いを受けるのは当然なのだ。そして、おれはこんなに傷ついているし、これから新たに生活を始める土地を探し、仕事だって見つけなくてはならない。
 十分、つり合いが取れている。
 おれは船の針路を変えた。
 もう村には戻らない。新しい土地に行き、新しい人生を歩む。
 名前も変えよう。桃から生まれた桃太郎?
 安直過ぎる。それに、桃から人が生まれるわけがない。
 どんな名前が良いだろう。
 考えながら、空を眺めると、鳥が横切った。
 雉だ。
 そこに犬と猿がしがみついている。
 太陽が眩しくて、右手で庇を作って眺めた。自然と指先が視界に入った。
 ささくれだっている。
 左手の爪で摘んで、ささくれを剥いだら、指先が痛かった。豆みたいな血が滲んだ。
 剥いた薄い皮には砂粒がくっ付いていた。
 皮を摘んだ指を離すと、風が吹いて、皮はどこかに飛んで行った。

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