小説

『白い犬』柴垣いろ葉(『山月記』)

「紹介するわね。こちらは新しくスタジオに入ってくれることになったカメラマンの加山誠くん。こっちはマシロちゃんの飼い主の吉田弘美ちゃんよ」
 そういうと典子さんは「じゃあ私は用事があるから」とパーティー会場の奥へと消えてしまった。
 私はそのあとのことをよく覚えていないが誠の長いまつ毛や大きな瞳、進められるがままに飲んでしまったシャンパンののどをひっかくような感覚などが断面的に思い出され、私を心地よい気分へと誘いこんでいった。パーティーが終わった後も遅くまで誠とバーで飲み明かし、気が付くと私は誠と二人でタクシーに乗って、後部座席で熱いキスを何度も交わしていた。なんだかわけのわからない中でも、とりあえず私の家の場所を運転手に伝えていたようだ。さすがに出会ったばかりの男性を家に入れる気にはならず、私たちは連絡先を交換するとまたキスをしてわかれた。

 私はマシロにご飯をやり忘れたことすら忘れていた。上機嫌で部屋に入り玄関で靴を脱ぐとそのままベッドに倒れ込もうとした時だった。なぜか部屋の窓が開いているのに気が付いたのだ。そしてケージの中にいるはずのマシロが消えている。もしかして誘拐?私は一気に血の気が引いていくのを感じて急いでベランダへと出ようとしたその時だった。
 ベランダの手すりに何か大きな影が止まっている。よく見るとそれは鳥のようだが、鳩とかカラスとかそういった鳥ではなく、緑色の頭に茶色い身体、平べったいくちばし、その鳥がこちらにぬっと顔を向けた。その蔑むような目で見つめられた時私は思わず叫んでしまった。「お父さん!」その瞬間、バサバサっと鋭い羽根の音がベランダに響いたと思ったら、鴨は登りはじめた朝日を待っていたかのように飛び去っていってしまった。私はなすすべもなく、ベランダからその後ろ姿を見送ることしかできなかった。折れ曲がった植木には、サナギだけが残っていた。

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