小説

『白い犬』柴垣いろ葉(『山月記』)

 そんな毎日を繰り返していたある日の事、いつものように仕事を終え、電車に飛び乗ってからスマホを開くと久しぶりに実家から電話がかかってきていた。
 その時は気にも留めなかったが家に帰ってから改めてスマホを見返すと、なんと着信履歴が10件以上にものぼっていたのである。
 認知症、という単語が一瞬頭をよぎったのは、最近深夜ニュースで介護特集をやっていたからに違いない。自分の浅はかな思考に呆れつつ、それでも少し心配になった私は、玄関でまだ靴も脱ぎ終わらない段階で実家に電話をかけたのだった。

 電話に出たのは母だった。
 落ち着いた口調ではあるが、声の少し上ずった調子から動揺していることは明らかだった。
「急に何度も電話しちゃってごめんね。こんな大事な時にあなた電話になかなかでないんだもの。お母さんだってこんなことになっちゃって驚いてるんだから。ねえ聞いてるの。ねえ!めんどくさいなって思ってるんでしょ。聞いてるの!」
 何かあると、思考が絡まり手当たり次第に周りの人間を攻撃してしまうのはいつもどうりの母である。
「なにがあったの」
 少しの沈黙の後に母の深く息を吸い込む音が聞こえた。
「お父さんが2日前から車で会社に行くって出て行ったきり帰ってこなくて、会社の人に連絡したらこっちにも来てないっていうのよ。それで明日捜索願いを出しに行こうと思ってるんだけど、もしかしてお父さんそっちに行ってたりしないわよね」
「え、こっちには来てないけど」
「そう、わかった。もし何かわかったら連絡ちょうだい」
「うん」
 スマホを切った後、私はスーツ姿のままでベットに横になってしばらく部屋の天井を見つめていた。

 上京というほどの距離ではないが一人暮らしをはじめて、つまり入社してから3年になる私は、最初の1年目こそ新生活に対する心細さもあってか寂しいと思ったこともあったが、慣れない仕事に追われるうちにあっという間に2年目の春が来て、少し仕事に慣れてきたころに友達の紹介で知り合った例の芋虫に似た彼と付き合い、正月もお盆も実家には帰らず、ろくに連絡をとることもなかったため、しばらく両親の顔を見ていないことになる。
 私の家族は、よく言えば干渉しあわない悪くいえば折りの合わない他人同士のような関係であったため、そうなってしまってもなんの違和感を感じることはなかった。
 しかし、父がいなくなったとは一体どういうことだろう。
 二人だけになった両親は、てっきりうまくいっているものだと思っていた私には、父の失踪の理由も失踪先も検討がつかなかった。

 次の日も母からの着信があった。
 今度は留守電に父の車が見つかったというメッセージが残されていた。

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