小説

『白い犬』柴垣いろ葉(『山月記』)

 その犬は私の生まれ育った町から電車で三駅目にある保健所にいた。
 刑事は私を車で送ると、申し訳なさそうに頭を下げて裏山へと戻っていった。
 外見はただの白い四角い建物に保健所と書いてあるだけのその建物の透明の扉をくぐり中に入るとカウンターの奥に受付なのだろうか、40代くらいの男がいた。
 私はその犬の写真を見せると男は立ち上がり、左手にあるただの白い壁に見えたがよく見ると取ってのついている大きな二重扉を開けた。その途端にむっとする獣臭さが立ち込め私は思わず後ずさった。中に入ると両側に檻があり、その中におびただしいほどの犬がいた。こんなに一遍に動物を間近で見るのは生まれて初めてではないだろうか。その鳴き声と臭いとにめまいを起こしそうになる中で、男はかまわずどんどん奥へと進んでいくので私もできるだけ男の背中以外見ないようにしながら奥へとすすんだ。
「ここです」
 男はそういうと一つの檻の前で足を止めた。
 そこには確かに写真の中に映っていた白い犬がいた。その犬は他の犬と戯れるでもなく外に出してくれと檻をひっかくでもなくこっちを見てまっすぐに座っている。私はその丸い瞳を一目見るなりほとんど衝動的に、まるで何も考えもなしに男に向かってこの犬を引き取れないかと聞いてしまっていた。すると男は驚くほどのすばやさでその白い犬だけを檻から取り出すと「この犬ですね」と言って犬を抱えたままスタスタと元来た出口の方へと向かっていく。私はそんな男の背中に向かって「あ」とか「やっぱり」など文章にならぬ言葉を発しだが、他の犬の鳴き声がそれをかき消してしまったのだろう。男が歩みを止めるどころか振り返ることすらなかった。そして、その犬は獣医師によって狂犬病の注射などを済ませた後、保健所にいって三日ほどしてから私の家へとやってきたのであった。父はまだ見つかっていない。

 受け渡しの際にこの白い犬が入っていたケージには、『オス ポメラニアン 推定8歳』とかかれた紙が貼ってあった。部屋につきケージを開けてやると、その犬はゆっくりと出てきては、あたりは注意深く見まわし少し周りの臭いを嗅いだと思ったらすぐにまたもとのケージに戻ってしまった。本当に真っ白く、ふさふさと丸い毛並みだったため、私はこの犬をマシロと呼ぶことにした。マシロとの生活は私に父の失踪とはまた違った刺激を与えた。とても大人しい性格のマシロは、職場で何かと時間に追われている私に穏やかさを与えてくれたのだ。マシロは甘えてきたりすることはなかったし、私も抱き寄せたりなでたりすることはなく、犬と主人というよりはひっそりとお互いの生活を見守る同居人のような距離感を保っていて、それがとても心地よかった。犬にとっての8歳とは人間の年で言うと8に7をかけた56歳という年齢になるそうだ。そういえば父もそれぐらいの年頃だったし、白い毛並みや大人しいこともあってか窓辺で黄昏ている丸い後ろ姿なんかがたまに白髪の老人のように見えないこともなかった。父の詳細は衣類が見つかってからというもの、何の手掛かりも見つからないようで私のスマホにはよく母から電話がかかってくるようになっていた。話の内容はもっぱら父の悪口だった。
「いい歳して家出なんてなんなのかしら。お父さんって昔っから幼稚なところがあったのよね。ほら、覚えてる?お父さんが小さいころに集めてたっていう切手を私が結構お金になるって聞いたから売っちゃったときあったじゃない。あれだって別にたいしたことじゃないのにいつまでもいつまでも根に持っちゃってめんどくさかったわよね。それに最近またその切手集めがエスカレートしちゃってて、やれ海外の切手がとか、形が三角の切手がとか言っておこずかいをせびるとうになってきてたから本当嫌だったのよねー。稼ぎだってそんなにないのに小さい紙に何万も出せないわよって。そしたらお父さんまたいじけちゃって、どうせ俺は飼いならされた犬みたいなもんだとかいいだして正直気持ち悪かったのよ」

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