小説

『父の宝』平大典(『ヘンデルとグレーテル』)

「……お願いします。その服装で行くの?」
「えー」智美は作業服を着ている武志を睨む。「やっぱ、こんなカッコじゃまずかったんじゃん」
「大丈夫だよ、登山するわけじゃねえし」助手席の武志は余計なことを言うなと言いたげに俺を睨んだ。「山っつったって、ちょっと森ン中を歩くだけだしさ」
 先が思いやられる。
 俺はこれ以上の話をしたくなくなって、アクセルを踏んだ。

***

 親父が武志と楓さんと住んでいる家へ俺を呼び出したのは、五年前のことだった。
 電話口でも親父が興奮しているのはすぐに判った。母親が死んで以降、親父を避けてはいたが、尋常じゃない様子に驚いて、車を飛ばした。
 到着すると、家の中から、親父の吠えている声が聞こえた。
「ふざけてんじゃねえ!」
 家に入ると、畳敷きの居間で武志と楓さんが壁際で抱き合っていた。親父は下着姿で、でっぷりとした腹を摩っていた。
「おう、恭平」少し酔っているのか、顔が紅潮した親父は俺を見るなり、叫んだ。「こいつらにも言ってやれ! 引っ越す必要なんかないってな」
「何の話だ」
 楓さんは嗚咽を漏らしたままだった。
「こいつら、この家が古いから引っ越そうとか言いだしやがって! どうせ建て替えられないからってさ」
 楓さんたちの主張におかしいところはなかった。この家も、老人ホームに入ることになった楓さんの親類から破格で譲り受けたと聞いている。土地はその親類の物だから、建て替えるのは権利関係で難しいのだろう。
 それよりも。親父は、俺が説得するとでも思ったのだろうか。
「……おかしいことないだろ。家がぼろいんなら」
「いや、違うだろ。この家で育ったんだから。愛着があんだろ!」
 武志は顔を引きつらせていた。親父がここまで激怒することが珍しいのは間違いないようだった。楓さんは薄っすらと涙を浮かべていた。
「……愛着の前に生活だ」
 親父の顔が更に真っ赤になって、目を見開いた。「お前、俺のガキの癖に生意気だ! お前なんか俺の息子じゃねえ。出て行け!」
 俺が自分の息子だから、味方になると思っていたのか。
 ふざけてんじゃねえ。そんな言葉も口にしたくなかった。

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