小説

『父の宝』平大典(『ヘンデルとグレーテル』)

「俺が管理しないといけない山が近いからだ」離婚する理由を問われて、親父はそう母親に告げた。
「ふざけてんじゃないよ!」母親はその言い訳に激高して、出されたお茶の入ったグラスを手で吹っ飛ばした。
 親父や祖父は、農家で幾つかの山を所有している家系だったのは事実だ。といっても、二束三文の土地で使いようはなく、持ち余らせていた。末弟だった祖父は、長兄たちから山の管理だけをやらされるようになってしまっていた。祖父が死んで、親父が引き継いでいただが、まさかそれを理由にするとは。
 母親はさぞ無念だったろう。その後も取り乱して、泣いたりものを投げたり、滅茶苦茶だった記憶がある。
 俺は終始下を向いて、泣いていた。


 幼い俺は、母親が冷蔵庫に張り付けていた親父の家の位置がわかる地図帳の破ったページを手に、外へ出た。
 蝉が騒いで、よく晴れた暑い日だった。小学校がある山の稜線には、入道雲が立ち上り、太陽は容赦なく照り付けていた。
 うる覚えで歩いていたが、隣町の看板が見えた辺りで、俺は走り始めた。我慢できなかった。汗が身体中から噴き出して、喉はカラカラで、小銭を持ってこなかったことを後悔した。
 やっと見覚えのある親父の新居が見えてくると、我を忘れてさらに駆けた。新居は俺の家と同じくらい古ぼけていた。庭先には、何かが詰められたごみ袋がいくつも出ていたし、窓ガラスの割れた部分はガムテープで補修されていた。
 扉の前に立ち、チャイムを鳴らした。
「すいませーん」声を出すと、しばらくして扉が開いた。
「こんにちは」赤ん坊を抱えた楓さんだった。このとき初めて楓さんの顔を見た。「……どなた」
「荒畑恭平です」
 名前を告げると、楓さんの顔は曇った。「……帰りなさい」
 俺は親父がいないことを悟り、代わりに赤ん坊を睨んだ。
 楓さんは、赤ん坊の顔を見せてくれた。
 小さな体、丸っとした頬、開いていない目。
 楓さんは呟いた。「恭平君の弟」
 それが武志に初めて会った日のことだった。

***

 武志に呼び出されて会ったのは、親父の葬儀から三日経った後だった。
 俺たちは、武志の家の近くの喫茶店で落ち合った。二人とも、アイス珈琲を注文した。
「親父の遺品を漁っていたら、地図が出て来たんだよ」

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