小説

『鬼婆の旅立ち』室市雅則(『安達ヶ原の鬼婆』)

 先程、一蹴されたことなど忘れ、真っ赤な口を開けて、蛙のように越川に飛びついた。
「俺がどれだけ待ったと思う! 俺がどれだけ!」
 無言で越川は鬼婆を突き飛ばした。
 鬼婆は地面に転がった。
「痛たた…」
「そんな大声出さないで下さいよ。もう」
 越川は首を回した。
「とにかく、来週放送しますからね。良いですよね」
 鬼婆は胡座をかいた。
「勝手にしろ」
「あざーっす」

『そりゃ、野菜作ったりな、猪狩ったりだな』
『あの子に会いてえよ。あの子に謝りてえよ』
「悔悟の涙を浮かべる老婆。家から料理までで全て手作りを味わえる『布施屋』はこれからも、旅人を待ち続けるのだろう。今日の『いきなりハウス』は、これにて」

 鬼婆の姿が全国に流れた。
 その異様な姿、暮らしぶりに好奇の眼差しを向ける人々が多かった。
 片や、何を勘違いしたのか、自然派な旅館と好意的に捉えた人々も大勢いた。

 シャ、シャ、シャ。
「はぁ」
 シャー、シャー、シャー。
「はぁ」
 シャッ、シャッ。
「はぁ。やっぱり旅人来ねえな…。あんな奴のこと信じた俺が悪かったんだな…」
 出刃包丁が吐息で曇った。
「こんにちはー」
「うぉ!」
 鬼婆は驚き、思わず腰を抜かした。
「こんにちはー」
 男と女の声が続いた。
「これか」
 鬼婆は、生唾を飲み込んで、にんまりとしながら、出刃包丁を物陰に隠した。
「はい、はい」
 戸を開けると、やけにふわりと柔らかそうな格好をしていた、男と女が立っていた。
 男はキノコを被ったような髪型。女はコケシみたいに眉毛の上で前髪を切り揃えている。

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