小説

『ドーナツと檸檬』もりまりこ(『檸檬』)

 掌に載っている一冊の本。
<定価八十圓、昭和二十六年一月十日發行。いしかはたくぼく>
 灼けた色のぺージ。ひらがなのところどころの活字がずれていたり、句読点や句点がにじんでいて、手のぬくもりのようなものがすぐそばまで伝わってくるみたいで三一子はこれをみると落ち着く。
 ふと栞のはさんであるページを見ていた。
『悲しき玩具』の96ページ97ページ。なんでここに栞がって思う。
 読みかけのところに挟んだだけなのか、それとも好きな歌の棲んでいるページだったのか。常さんのこころのなかを、黙ったまま三一子は知りたくなった。
 唯一やさしい肉親は、祖父だけだったから。

 ブローチの針が服のすぐ下の肌を刺したみたいに、ちくちくとするような歌が並ぶ。そのどれかの歌に立ち止まってしまった常さんを思って三一子はぢんぢんした。
 その時、数えていたわけじゃないけれど、掠れてる右隅と左隅のページをなにげなくみるとはなしに見ていた時、いきなり64ページの次は81ページになっていて、なんで?
 って思ってもういちどページをめくり続けていたら、<一握の砂>の48ページの次が65ページになっていた。なくしたんだと思っていたページを思いがけずみつけた。なくしていたものはなくなってしまったのではないんだと、心のなかで笑う。
 三一子の祖父常さんはそれをむかしむかし四条河原町の<丸善>で手に入れたものらしい。
 ふいに彼女がカジモトに話しかける。
 話しかけると気づくまでに時間がかかる。側にいるのに問いかけの答えが返ってくるのは、これは衛星中継かい? ってツッコみたくなるほどの間。

「乱丁。常さんの大切にしていたらしい歌集がらんちょうだったことを知って、なんだかとてもいまいじょうに愛おしいものに思えたの。何に対して愛おしいのかわからないけれど。いしかはたくぼくの歌集一冊に対してでもあるような乱丁を知ってか知らずか愛読していたらしい常さんに対してでもあるような」
 三一子は、一気にまるで文章のように喋ると、黙った。
 しばらくいつものように衛星中継の間があって、喋り出す。
「栞落としましたよと声かけられてだれかの影もいっしょに拾う」
 カジモトはきょとんとしたまま、え? って顔を三一子に向ける。
「え? も一度言って」
「ふー。怖って感じ?」
「いやいや。こわっとかわからん。も一度言ってみて」
 仕方ないなって顔して三一子は諳んじた。
 たくぼく好きというだけあって、それが三十一文字の歌であることにやっと気づいた。
 たしかに怖かったけれど、いや怖かった、その時だった。
「うー、カジちゃん、いまもしかしてドックんって音した? 心臓の」
「したかも」

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