小説

『ドーナツと檸檬』もりまりこ(『檸檬』)

 ほんとほんと、すごいほんものの檸檬だって答えながら一盛り買った。
 袋の中からひとつをとりだすと、さっき確かめたはずの檸檬の匂いをもういちど鼻に近づけた。
「なんとなく、カジちゃんの心臓を思うから果物屋はすきなの。ここにいるって思えるからね」
 いつまでも鼻の側から檸檬を離さない三一子に、胸の中まで労わられている気になって落ち着かなかった、そんなふたりの頭の上で轟音がした。
 花火大会のはじまりの音だった。

 8月の暦のいちばん最後の日を迎えても、なかなか夏が終わりそうな予感を味わえないことが、うれしいことなのか倦んでいっているのかわからずにいた。たぶん倦んでるんやな。むかしはこれでも花火が好きやった。去年までは、北東の空近くに上がる8月の花火を待ち構えて狭いベランダのビルの谷間から覗いては、色鮮やかな火の花びらを見たせつな、その後に現れるスターダストを眼で追いながら、安堵したような夏のピリオドを迎えた気分になっていた。
 あんなに好きやったものに胸がざわつかなくなるなんてことがあることを、知った。
 三一子が空を見上げてる姿を俯瞰した。じぶんの何かが変化しているのかもしれへん。始まりを告げた花火にそわそわしない。
「あれ? カジちゃんどしたの? 花火だよ」
「うん。ハナビ。はじまる」
「変。へんへんへん。だって花火始まる時はいっつもカジちゃんのここから、してきたじゃない。檸檬の匂い」って、三一子はカジモトの胸元に鼻をくっつけた。
「ちがう。ちゃううちゃう。嫌いになったん?」
「ハナビ? うん、なんかフラットやな。ま、卒業したんかもな」
「ふーん」

 ふしぎやったけど。好きなものは一生すきやないし。ぬけがらを脱ぐように、どこにも痛みを感じないぐらいになるまで脱皮できたとき、そのものごとからちゃんと卒業できたことになるのかもしれへん。
 こころの中の感傷が重く張り付いているときに、そこにはある種の色がまつわりついていて。そこから時間を経て、そんなちくちく刺さるような情緒からうまくすり抜けられた時に、心の色は透明になっていくんやなって思う。
 カジモトは、それはレモンイエロウやなって、一人合点した。
 とか言ってる場合やなかった。
 気が付くと、通りの向こう側によく見知った顔があったのだ。
 カジモトは三一子の手をぎゅっと握る。
 三一子はびっくりして、カジモトの眼を覗く。三一子の眼の中で花火の色が写りこんでる。あっちは見たらいかんってあっちのアングルをわからんように眼の動きだけで知らせる。
「もしかして、バンスキングの金井?」

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