小説

『ドーナツと檸檬』もりまりこ(『檸檬』)

 毎年5月と7月の2日間、太陽が天頂を通過するらしく、その時には泉の中に垂直に光が届くのだ。
 どこからか始まってどこかへと辿り着こうとしている光を見ていると、なにか通り過ぎることのできない人を立ち止ませる力があるんやって、カジモトも感動に似た思いに取り囲まれていた。
 その時、急に胸のあたりがこくんと鳴った。比喩ではなくてこくんと。
 鳴った後、気づくと病院のベッドやった。
 海外で入院って、酷い目にあわされるんちゃうの?
 目覚めた時、ツアーの通訳の人が言うてはった。
「よくわかんないんだけど、ミスターカジモトの心臓は檸檬みたいな形なんだって」
 こんなひどい目に合わされた人間を前に、この人笑うてる。
 いやいやよくわかんないんだけどやないやろうって、声には出さずに自分の胸の内側に囁いて、頭をこくんと下げて首を傾げた。
「よく原因はわからないって。でもね、運ばれてきた時すごい柑橘系の、檸檬フレーバーの匂いがしたって。エーンド」
 エーンド? それがAndだと気づいた時彼女を見るとまた口元が笑ってる。
「ボリス・ヴィアンみたいだなっておっしゃってた」
「なにそれ?」
「知らないの? ミスターカジモト、恋人の胸にスイレンが咲いてしまう20世紀で最もヒツーなレンアイ小説よっ」
「す、すいれん? 花の? なにそれ?」
「でも、あなたはレモンなのよ、イカシテルゥ」
 帰国子女らしい通訳女子は、イカしてるが流行った頃、それっていつなのか知らんけど、まぁその頃に渡英したらしい。だからボキャブラリーがその時点で止まっているのだ。言葉の遺跡。言葉の古時計屋さんみたいなもん。
 ベッドでカジモトが思うてたこと。忌まわしいあの<ドレミの歌>。
 じぶんが倒れたんは、セノーテの泉に太陽の光が差し込んできた時やった。
 光をぼうっと見てたらそれは<♪レイアドロップオブゴールデンサン>のレイちゃうん? ってうっそーそんな現象何十年ぶりにわかったがなって勝手に記憶が手繰られてたら、たちまち心臓がまいった。レは檸檬のレやなくて、こっ
ちかい? って腑に落ちて。
 いやちゃう。そんなことより檸檬。じぶんの心臓に檸檬が生ってるんやってひとつだけ。
 カジモトの彼女三一子は、すこしだけクレージーだ。
 賭博を生業にしている父親と賭博がうまくいってる時だけ愛情を家族みんなに注ぐ母親と、意地悪な兄がいたらしい。
 ただ母方の父親、彼女にとっての祖父の常さんとだけはいろいろと思い出があったらしい。今はなくなってしまったので、その思い出に時々しがみついて生きている。

 三一子は、腕を伸ばして本棚の奥にしまってある本の背表紙に触れる。すこしだけやわらかい感触。いっつも荷物があふれかえっている本棚の前に身体を寄せられないので背表紙の名を眼で判断するんじゃなしに、指の感覚に頼るしかない。
 指の指紋の刻まれたあたりがまるで眼になったように、これだとおもうよ、たぶんこれと指が教えてくれる。いろんなずっと昔の時間に馴染んできた文庫本を指で手繰り引き寄せる。

 やっぱりみつけたかった本。三一子は独り言ちる。

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