小説

『銀河、夢で見た』森な子(『銀河鉄道の夜』)

 そっか、と春子が残念に思っていると、花江がにこにこしながら口を開いた。
「あたしが明日の昼に食べるよ」
 その時の花江の、油断しきった顔、というのだろうか、野生を忘れたような情けない表情を、春子はきっとずっと忘れることができないだろう。人は、あまりにも安全な場所にいすぎると、本来持っているはずの野生を忘れる。鋭さのようなものが本当になくなって鈍くなる。
「あら、そう?あんたは本当にコロッケが好きね」
「うん、好き」
 母が自分と花江の思い出を混同していて、花江は持ち前の鈍さでそれに気づいていない。春子は気持ちが悪くて吐きそうになった。
 コロッケ一つで家を出ることを決意する人、私のほかにいるだろうか。もしいるなら教えてほしい、と春子は思ったが、そんな風に自虐しながらも決意は固かった。
 春子は高校時代からの友人に手伝ってもらいながら、それから速やかに家を出た。はじめての一人暮らしは何かと大変だったが、それよりも、家に帰ってあの奇妙に淀んだ空気を吸わなくていいのだと思うと泣きたいくらい嬉しかった。
 もっと早くこうすれば良かった。母の言う「一人暮らしなんてあんたにはできっこない」「仕事を辞めたくなったらどうするつもりなの?」「お金が足りないって泣いても援助してあげないからね」などの言葉を鵜呑みにしてずっと躊躇していたが、はじめてみれば案外なんとでもなかった。
 一人暮らしを始めてから、春子は実家に寄り付かなくなった。母から時折入る電話によると、姉はまだ働いていないようだった。
 インターネットでニートのきょうだいを持つ人の話を流し読むと、「ご家族が親身になってあげてください」「当人が一番辛いはず」「家庭環境が悪いとそういう子供に育つ」などの意見ばかりが溢れていた。
 そうか、一番辛いのは姉なのか。母もよくそう言っていた。「あの子が一番辛いはずだから、家族の私たちが見守ってあげないと」と。じゃあ、二番目に辛いのは?それになにより、一番とか二番とか、だれが決めるんだ?
 初対面の人に、きょうだいはいるの?と訊かれたときに冷や汗をかく体験をしたことがある人にしかきっとわからない。います、と答えればほとんどの場合で「へえ、何をしているの?」ときかれるし、かといっていません、と答えるとなんとなく罪悪感にかられる。
 もうずっと小さな頃から、両親は姉のことをいつも心配している。心配することが愛情だとでもいうみたいに。そうして、春子がちょっとでも、友達と喧嘩した、とか、学校めんどうくさい、とかいうと、本当に不安そうに「でも行けるよね?休んだりしないよね?」と訊いてくる。あんたまであんな風にならないでよ、というみたいに。そういうことが面倒臭くて春子はあまり愚痴をこぼさない子供になった。
 父も母も年をとって、自分の周囲の人たちに孫ができて、それをとても羨ましがっている。けれど孫が欲しい、という旨を花江には決して言わない。春子にむかって言ってくる。本当に真剣に。その権幕が、いやらしさが、春子は心底悲しかった。
 けれど、もしかして、と思う。花江は辛いのだろうか。老婆のように曲がった背中と、ぞっとするほど黒いぼさぼさの髪、それにボロボロのジャージを毎日身にまとって、外に出ることを心底嫌う花江。父や母に対しては偉そうで、春子に対してはどこか怯えた目をする花江。

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