小説

『悪夢的存在』和織(『冗談に殺す』夢野久作)

 マンションに帰り、エントランスの扉を通ると、なぜが足が止まった。なんだろう?とふと右を見ると、そこの壁が鏡になっている。ずっとそうだったし、今までそれを気にしたことなんて一度もない。いつも、見向きもせずに通り過ぎていた。けれど、今夜は違う。そこに写った自分を見て、あの女の言っていたことを思い出した。ああ、これが自分ではない自分なのだ、とわかった。どうやら、あの女と一緒にいたせいで、俺もおかしくなったようだ。
 俺たちはしばらく、お互いの健闘を湛え合うように見つめ合った。
「なんだか、体まですり減ったような気分だよ。身長が縮んだ気がしない?」
 俺は言った。
「言われてみれば」
 掠れた声で、向こうの俺が言う。
「お疲れさん。ゆっくり休もう」
「ああ、そうだね」
 慰め合うように少し笑って、俺たちは別れた。

 次の日、俺はいつも通りの時間に起き、いつも通りの時間に部屋を出た。エレベーターで一階へ下りて、エントランスの扉から少し離れたところで、ガラス越しに外の様子を伺った。案の定、警察の人間らしき二人の男の姿が見えた。
 俺はゆっくりと歩いて、あの鏡の横に立った。鏡の中の自分も、もちろんあの二人に気づいている。状況は同じ。しかしそこには、自分ではない自分の姿がある。鏡の中の俺は、青白い顔をして、微かに震えていた。俺は自分の、実際の手に目を落とした。そこに震えはない。顔色だって、悪くない筈だ。
「おい」
 俺は、怯えた表情で外を見ている自分に声をかけた。するとその顔がゆっくりとこちらを向き、その目が、助けを求めるように見開かれた。
「もう警察が来るなんて…」
「井戸の臭い、日に日に酷くなってたからね。近所住民に顔を見られてたし、それで通報されるのは時間の問題だったよ」
「井戸の中は、俺たち関係ないじゃないか」
「あの女以外は、だろ?」
「…..」
「まぁいいじゃない、別に捕まることを恐れてた訳じゃないだろう?」
「そう思ってた,,,けど、やっぱり嫌だな」
「あの女の方から殺してくれって言ってきたんだ。そう頼まれたんだから、無理矢理殺したのとは違うさ」
「そう…そうだよ,,,,,」

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