空のバケツをぶら下げ、城の使用人が部屋を出て行った後には、鼻を突くような異臭が広がった。中央に置かれた古いテーブルの上に純白の大皿が一枚。その中に生々しい心臓が真紅の血だまりを作り載せられていた。
大きな鏡が部屋正面の石壁にはめ込まれ、闇にでも通ずるかのような鈍(にび)色(いろ)の光を放っていた。
テーブルの前に金髪の美しい女性が座っている。手にはナイフを持ち黙したままじっと皿を見つめていたが、やがてナイフの先端を血だまりの中に差し込み、その視線は鏡に向けられた。
皿を前にテーブルに座る女性の名はマルガレータ。白雪姫の継母である。彼女はヘッセン州のヴィルドゥンゲン伯の次女で、彼女の父親譲りの整った顔立ちと、抜き出た聡明さは近隣の誰もが知るところであり、正に后に相応しい人物であった。
マルガレータが后として入城したのは、今から六、七年ほど前で白雪姫が一歳か二歳の時であった。この部屋の椅子もテーブルも鏡も、全てがその時のままである。
先の后が亡くなった当時、城には色々と良からぬ噂がはびこり、その後、新しい后として名誉ある第一候補に挙げられはしたものの、マルガレータはそれを素直に喜ぶことはできなかった。
そんなある日、亡くなった后の侍女と名乗る女が訪れ、マルガレータは彼女から一通の手紙を受け取った。手紙の主は亡くなった后、つまり白雪姫の実母である。我が子の継母となるべき相手に宛てて、彼女が生前書いたものであった。自分が死んだ後、継母となる者の手に渡ることを願い、その手紙を侍女に託したものと思われる。
手紙には、人々の口の端に上る、城にまつわる忌まわしい出来事が綿々と記されていた。その文面はマルガレータが耳にした噂より、遥かに奇妙で恐ろしいものであった。
手紙によると、それらのことは全て、ある忌まわしい物によって引き起こされるという。その忌まわしい物とは、石壁にはめ込まれた大鏡のようであるが、いかなる怪物かマルガレータには想像もつかなかった。只、その怪物が城の后と姫を言葉巧みにたぶらかし、やがては死にも至らしめる恐ろしい物であることは分かった。
手紙を読み終わるころには、彼女の今まで抱いていた心の迷いやためらいは払拭され、それと入れ替わる様に、亡き后に代わり、白雪姫を守らなければならないという強い決意が芽生えてきた。それ程その手紙には亡き后の無念さが滲み出ていた。
間もなく人々の祝福を受け入城したマルガレータは、子豚のような白雪姫を心から愛し慈しんだ。それと共に、忌まわしい鏡と闘い、実母の仇を討つことをこの子豚にも教えようと思った。
マルガレータが城で一番初めに行ったことは、忌まわしい大鏡の探索である。手紙から推察するとこの辺りに石壁の部屋があるはずなのだが、杳として見付からない。その石壁の部屋を見付け出さなければ、大鏡をも見付けることが出来ないのである。
幾日も丹念に城内を歩いてみたが見付からず諦めかけていた時、背後に嫌な気配を感じてマルガレータは振り向いた。その瞬間、大穴が背後に広がっており慌てて身を翻したが、良く見ると穴ではなく鏡のようである。