悪さをしていないのに教師に叱られた中学生みたいな気分になった。やっとのことで数十文字の呪文を詰め込むと、次の窓口を教えられた。さっき書類を提出した役所の、また別の部署である。職員に差し出された端末に覚えたばかりのパスワードを入力すると、窓口の中にあるドアから、階段を上るようにと言われた。
たらい回しかよ、と僕はうんざりした。慣れない暗記を頑張ったせいか頭痛がしていた。階段を一段上るたびに締めつけるような痛みがあり、視界が歪む。踏みしめるはずの足がふらっと宙に浮いて、階段から転げ落ちる!と体を固くした次の瞬間、僕はボート置き場に立っていた。
あたりにひと気はない。すぐ横は川。流れはゆるく水位は低い。ボートの塗料はどれも剥げていて、打ち捨てられているように見えた。桟橋の上り口の朽ちかけた看板には「第弐舞台」というかすれた文字がある。生暖かい風が吹いて、季節が変わっていることを知った。こうして僕は第二ステージの住人となった。
第二ステージで生活の心配がないのは本当だった。
食い扶持を稼ぐために働く必要はない。腹が減ることがなかったからだ。楽しみのために食べることはあっても、栄養補給は必要ない。疲れを癒やすために休息する必要もない。眠くもならず排泄したくもならない。その変化には第二ステージに着いて間もなく気付いた。いや、ずいぶん後だったかもしれない。いつだったかわからないのは当然で、それは第二ステージには時間がないからだった。第一のステージと同じように、ここでも朝日は昇るし夕陽は沈む。けれどもそれはただ僕らが朝の光や夕焼けを見たいからで、ただ「おはよう」の挨拶をしたいからで、朝も夜も、昨日も今日も、百年過去も未来も同じなのだった。新しい一日という区切りを、形式として維持しているだけなのだ。
「おはよ」
足元から声をかけられ、見下ろすと、頭部だった。彼が朝の挨拶を口にしたことで、僕らは一瞬すがすがしい空気を吸いこんだ気になれる。
「これから雪山に行くんだ」と頭部は言った。
「雪崩にあったことないだろ? いちど間近で見てみたくないか。一緒に来いよ」
頭部は遭難ごっこが好きだ。ここではどうせ死ぬことはないから、自分で雪崩を起こすつもりでいるんだろう。
「いいね」と僕は答える。そして角を曲がれば、僕らはもう雪景色の中にいる。死なないとわかっていれば怖いものはない。僕らはいつだって、どこにだって行ける。
頭部は僕が住みついた部屋の真下に住む男で、首から下がない。第二ステージに来る前からそうだったわけではなくて、自ら望んでこの姿で行動しているのだった。いつも頭だけでごろごろ転がって移動するので頭部と呼ばれているのだ。目が回るんじゃないかと思うのだが、本人には快感らしい。時たま七頭身になって現れることもあって、その場合はとっさに彼だとはわからない。要するに、ここでは各人が好きな形に姿を変えていいのである。若返りはもちろん、性別を変えてみることも、頭部みたいに体の部分を変化させることもできる。僕も好奇心から幼い頃の自分や、四十歳になった自分を鏡に映してみた。六十歳の姿も試してみたが、変化できなかった。