小説

『狼と老婆』沢まゆ子(『赤ずきんちゃん』)

 六さんは、「今助ける」と言い、お腹にはさみを入れた。
 今は気絶しているけれど目を覚ましたら大変だ。六さんはそう言って聞かない。女は泣き止まない赤ずきんを部屋の隅に座らせ、「じゃあ、い、石、六さん、石持ってきて」と指示をした。そうして女は狼のお腹に石を詰めた。
「六さんにのっかって一芝居打つしかなかったのよ。だって、あのときの六さん、ほんとうに撃ち殺しそうだったんだもの」

 さっきまで心地の良かった風が、やや冷気を帯び始めた。西に傾きだした日差しが、微かに見える湖面を銀色に照らしている。
 男はいつしかマスクを外しており、着ぐるみのジッパーは腰まで下ろされていた。内側が露わになった襟首には、たろうと書かれた名札が縫い付けてある。
 男は、女に抱えられたままになっていたぶどう酒を奪い、ナイフでボトルキャップに切り込みを入れる。
 「で、暮らすの? 赤ずきんと」
「暮らさない」
「なんで? 一か月、暮らしてみればいいじゃん。向こうが望んでるんなら」
「なんで? どうして他人の、しかも赤の他人の子どもと一か月も暮らさなきゃいけないのよ。どう暮らせっていうのよ? 私の立場にも」
 女はそこまで言うと、言葉を呑み込んだ。最後の、立場にも「なってみてよ」は、声にはならず宙に浮いた。
「いいわ、わたし、人の立場に立って考える、っていう考え方、嫌いなの。反吐が出る。人の立場になんて絶対になれない。どうやったってなれない。だってわたしたち、その人にはなれないんだもの。人一人をぱくりと食べることができない限り、さっき食べたヤマメだって骨も残さず目玉も全部、全部ぜーんぶまるっと食べない限り、ショーウィンドウに映るケーキをぱくりと一つ食べるようにさ」
 女は、そしてまた言葉を呑み込む。
 そして、静かに言った。
「だからね、わたし、あのとき、あなたがうらやましかったのよ」
「石詰め込んでおいてうらやましい、か。趣味悪いな」
「だからそれは、悪かったって。だからこうしてあなたが戻ってきたときは、ごはん与えてるじゃない」
「与えてるってまたひどい言い草だな。まあいいや、はいありがとう。続けて」
「うん、あなたはまるっと人を食べたわけじゃない。それも二人も」
 食べてはいないし、飲み込んでさえいない。ジッパーを開けて腹に入れてやっただけ。しかも自ら熱望したわけではない。むしろその逆だ。男は思ったが口にはしなかった。
「仮に食べたとして、でもそれは俺じゃない。狼だろ」

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