小説

『狼と老婆』沢まゆ子(『赤ずきんちゃん』)

「そのひどい出来に依頼したのはそっちだろ。ていうか、あなたはすっかりメイクしなくても老婆に年齢が追いついてきたね。今日メイク、薄めにしといた」
 女がフォークを立てる。
「あのね、今は五十代のファッション誌が売れる時代よ。わたしもまだまだこれからよ」
 それにこれ、落としたあとなんだかとっても若返った気分になるの。女がうっとりした表情で続けると、がんばって、世の中には熟女好きって言葉があるくらいだから、俺にはその趣味ないけれど、と男は返した。返したが、会話はどこか上の空だった。体を起こしたとき、女に何か言おうとしたはずだ。けれど、それが何だったのか思い出せない。
「あーあ。人なんて滑稽ね。滑稽で無様ね」
 ぶどう酒を口に含んで女が言う。
「生きるってことは忘れるってこと。なんでも覚えていたら生きられない。それはわかる。でも、無様よね。いろんな関係断ち切って、それでひっそり暮らそうと思ったのに、結局人と関係している。生きているうちにはまた新たな感情が生まれて。ねえ、残る記憶って何なのかしらね。覚えている記憶だけで成り立ってるのよ、わたしたち。しかも記憶なんて都合のいいように解釈されて、そんなつくられた記憶で成り立っている、自分自身。滑稽ね」
 そうだった、男は思った。
 あれ、もしかして、赤ずきんのこと、可愛くなっている? 
 そう聞こうと思ったのだ。
 それだけではない。母親に対して、何か感情が生まれている?
 けれどそれを友情と呼ぶのか、愛情と呼ぶのか、あるいは信頼とか絆と呼ばれるものなのか、そのどれでもある気がして、しかしそのどれとも違う気がして、その感情に呼び名があるのかは、男にもわからなかった。
「言葉にできないこともある、か」
「何よ、急に」
 確かに人は忘れて、記憶は都合のいいように残されるかもしれない。けれど、生きているうちにはまた新たな感情が生まれて、それは記憶を壊すような新たな感情もきっとあって。その新たな感情とは、どんなものなのか、女に聞いてみたかった。
けれど、今は質問は止めにした。
 言葉にできないことはあっても、それでも言葉は一人で沈めるものではなく、やっぱり必要なときには必要な人に出していくものだと思う。だから、いずれ、女の口から言葉になるのを待ってやろう。男はそんなことを思った。

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