小説

『狼と老婆』沢まゆ子(『赤ずきんちゃん』)

「そうよ、あのときあなたは狼だったじゃない」
 こりゃだめだ。会話の迷宮入りを悟った男は、すっかり短くなっていた煙草を灰皿に押し付けた。
「あなた、わたしのこと食べたんだから、わたしの気持ち、わからないかなあ」
 女が子どもみたいにつぶやく。みたい、ではなく、ぶどう酒を飲む子ども。男の目にはそう映った。
「でもなんか、わかるかもなあ。来たいっていう気持ち」
 男は伸びをして言った。伸びをして、そのまま椅子の背もたれに身を任せてのけ反ると、西日が山を赤く染めていた。
「なんで? なんでわたしの気持ちはわからないくせに、あの子の気持ちはわかるのよ」
 赤い山を眺めながら男は思う。
 男の叔父もまた、どこか子どもじみたところのある人だった。今考えれば、だ。
 男が叔父を建築家と認識したのは高校を卒業する頃で、それは叔父が建築家としてきちんと金を稼げるようになった時期でもある。それまでの叔父は、その肩書に世間一般が持つイメージや期待からは程遠く、幼心にも得体の知れないおじさんだった。
 男は思う。その得体の知れないおじさんに会いたくて、この山小屋に来るのが楽しみで仕方がなかったことを。
 女の作戦とは裏腹に、赤ずきんはあの一件以降も、と言おうかそれを機に、その後もときどき遊びに来るようになった。そして家出をしたいと言う歳になった。
「だいたい家出なんて、宣言してするもんじゃないわよ。ほんとガキって嫌い」
 女は、テーブルに置かれた男の煙草の箱から一本を抜き取り、火を付けた。
「ギャルよギャル。髪なんかまっ茶っ茶に染めちゃって。素顔がわからないようなメイクしてるわ。わたし、あなたの狼の登場なんて比にならないほどぎょっとしたんだから。あれこそ特殊メイクよ。まったく親泣かせなんだから」
 男がゆっくり起き上がる。
 女が注ぎ足すぶどう酒の色が、さっきより濃く見える。山の夕暮れは光の移行が早い。
「あなた、今回いつまで居るの」
「あさって」
「あら、短いのね」
「これでもまあ社会人だからね。ピンで任せてもらえる仕事もぼちぼちもらえるようになったし」
 男は叔父から山小屋を譲り受け、年に数回ここに戻っては作業をする。
「ねえ、あのさ」
 ぶどう酒を飲む子どもは、今度は中坊みたいにそっぽを向く。
「ありがと。狼着てくれて。今日」
「どういたしまして。しっかし久しぶりに引っ張り出したけど、改めて見るとひどい出来だな」
「今さら言わないでよ」

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