何か言わなきゃ、会話を続けなきゃ。そう思っていると、事務室のドアが開いた。
「ああ、いたいた。じゃあ、僕は出かけるからね。戸締り、よろしく。ユミさんも、雨、酷いから。気をつけて帰ってね。」
院長だった。珍しくスーツを着た院長は、私たちに声をかけて帰っていった。
「お疲れさまです。いってらっしゃいませ。」
ササキさんはいつも通りの声色で、院長に挨拶をした。
「お、お疲れさまでした。」
チラリと院長の左手に、紫陽花の花束が見えた。
「あれ、院長これから往診じゃないんですか?」
「ええ、今日はお休みなんです。」
「花束持ってました、よね?」
「ええ。…気になりますか?」
彼女が、いたずらっ子みたいに私に問いかける。
「気にならない、と言ったら嘘ですね。」
「ふふ、正直ですね。何だと思います?」
「えっと、花束ってことは…。誕生日とか…。」
私の返答を待たずに、彼女は話し始めた。
「今日、六月十三日は先生の奥様と娘さんの命日なんですよ。」
「えっ…。」
全く、知らなかった。奥様のことも、娘さんのことも。ましてや亡くなっていたなんて。
「いつ、お亡くなりになったんですか?」
「私がここに来る前ですので、もう十年以上前になりますね。交通事故、だそうです。」
彼女は私から視線を外して、淡々と語り始めた。
「その日は娘さん、ミユキさんの二十歳の誕生日でした。先生は家族三人で祝おうと、レストランのディナーを予約していたようです。しかし、その日は状態のよくない患者さんがいて。往診が長引いたので、先生は奥様に先にレストランで待っていてくれ、と連絡しました。レストランにはご自宅から歩いて行ける距離でしたが、お二人は雨が降っていたからか、タクシーで向かったようです。ほんの数分、車に乗っている間に、お二人の乗ったタクシーは、対向車のトラックと正面衝突し、タクシー運転手、トラック運転手、そして先生の奥様と娘さん、皆さんお亡くなりになったのです。」
私はいつも会話をするとき、ササキさんの表情を気にしてしまう。彼女が『エー』だと分かっていても、必ず。院長の事を語る今の彼女は、少し悲しそうにも見えた。
「そんなことが…。初めて知りました。」