桜井は一口お茶を飲み、少し落ち着きを取り戻した。だがまだその瞳には何か燃えたぎるものが見えた。
「うちの妻は娘が死んでからずっと病んでた。そうして事故で死にました。でも、あれは、自殺も同然だ」
「申し訳ありませんでしたっ!」
信子は渾身の力を振り絞って、必死に頭を下げた。
「謝るくらいなら殺してくれませんか?」
信子はナイフに手を伸ばした。その手はぶるぶると震えている。信子の手が、ナイフに触れる。だがその重たい質感に怯え、思わず手を引っ込める。だが桜井の強い視線を感じて再度、震える手をナイフに伸ばす。ナイフに手がかかる。恐る恐るギュっと握る。
そしてナイフをテーブルから抜こうとし、力を入れた。
「んっ」
だがナイフは抜けなかった。信子は力を入れてみるが、ナイフはびくともせず、抜けなかった。
「ハハハ…………」
桜井が弱い笑い声を立てた。
「あの時、娘のお腹の中にいた赤ん坊が産まれていれば、今年二十歳なんです。成人式には大雪が降ってくれないかな、なんて思っていました。女の子はみんな着飾るでしょう。あれを見るのが辛くて。だけど今年の成人式は天気が良かった……弱いけどすがすがしい冬の空気が綺麗でそんな中で。着飾った女の子たちは、キラキラしてた。それを見ても辛くはなかった」
十六歳で死んだ信子の娘は、高校の担任と恋をした。不倫だった。
そこまでならよくある話だったのに、その恋愛の最中に妊娠した妻に嫉妬した娘は、その妊婦を殺した。それが桜井の一人娘だった。
「ただ、ひたすら、空虚でした」
当事者である娘の担任は事件直後に精神を病んで実家の両親が世話をしている、というのは、事件を追いかけていた記者の誰かから聞いた。今どうしているのかは知らない。
「あの……」
信子は桜井に問いかけた。
「……一人だから、できないのかもしれないです」
信子の声に桜井は戸惑っているようだった。信子が何を言い出すのか全くわからない不安が、揺れる瞳に混じっていた。
「……あの…………たとえば……一緒なら、死ねるかもしれません」
「私とあなたが?ですか?」
桜井は驚いた顔で信子を見た。