あの母に限ってそんなことを。父がいなくなってから俺と弟を女手一つで育てた母を。だがよく考えると「女手一つ」の時期はせいぜい一年くらいのことだった。幼い兄弟には男親が必要だという世間一般的な発想で再婚したのだと勝手に思っていた。そして今日までそれを信じて疑わなかった。というか母親の恋愛感情など考えたこともなかった。
「あの日。翔太の誕生日だっていうのに、お母さんはその浮気相手と会う約束をしてたんだ。電話で。それを聞いちゃってさあ。家族で翔太の誕生日ケーキを食べるって時に、他の男と会って帰ってきた妻に、どんな顔をすればいいんだよ。なあ、さっちゃん」
幸子は痛ましそうにうなづいている。
「それを考えたら家に帰れなくなってしまった」
父は俺に頭を下げた。
「本当にごめんなさい。弱い男で。一回だけ。あの日が翔太の誕生日じゃなければ、って思ったことは、確かにあった……うん、一回だけ、ホントに、一回だけ、ていうか、一瞬」
「…………なるほど」
「すぐに再婚したってことは、あの時の男と結婚した、ってことだろう?まあ、それはそれで良かった」
俺は二十年目の真実に打ちひしがれた。そしてそれをずっと、言うでもなく、会うでもなく、ただ淡々と家族とは別の場所で生きた父の心のありようを想像すると、息が苦しくなった。
「言っておくけど俺は彼女を恨んでないよ。俺がいなくなっても翔太をこんなに立派に育ててくれた。その旦那さんも。感謝しかない」
俺の誕生日に蒸発した父。あの日、深夜になっても家を出たり入ったりして父の帰りを待っていた十歳の俺。そんな俺を心配する母。何事かわからずに寝入った弟。朝になっても帰らなかった父。心配をランドセルに詰めて学校に行った。放課後になって、家に帰ればそこにはいつもの家族が戻っていると信じた。だが夜になっても父が戻らなかった。母から聞かされたのは「お父さん、家出しちゃった」の一言だった。あの日の胸のざわつき、不穏な予感を、俺の体の芯が思い出した。少し震えた。下着姿のままだからだろう、と、俺は強く思った。
すると沈黙を破るように、幸子がコンビニの袋をがさがさと漁り、どんぶり
プリンを取り出した。
「あら、誕生日ケーキがあるじゃないですか」
「プリンだけど。ま、いっかー」
父はそう言いながら自分の骨壺に供えてあったろうそくを持ち出した。
太くて短くて何故かくるくるとひねりが効いた仏様用のろうそくをどんぶりプリンに差し、火を付けた。幸子は今日、一番良い笑顔をしてその様子を見守っている。何が嬉しいのかまるでわからない。恋愛経験なく四十歳で病死した初対面の女性の感性など想像さえつかない。
「あのさ」
父がろうそくに火を付けながら、俺を見た。
「お前、誕生日に結婚したらいいんじゃないか?」
俺はドキっとした。