小説

『トゥエンティ・ミニッツ・トゥ・ミッドナイト』泉鈍【「20」にまつわる物語】

 こういったことには、もう、うんざりだった。一言、文句を言ってやらないと、気が済まない。便所に駆け込んで行く男の背に声をかけようとして、いつの間にか音楽が切り替わっていたことに気が付いた。最悪だ。
 おまえは逃げられない。
 お気に入りの音楽を置いて、タナカは、すぐに後を追いかけようと足を向けた。だが、まるでタナカの邪魔をするように、フロア中を外人共が埋め尽くし、無茶苦茶に踊り出していた。馬鹿どもが。最初のステップが肝心だ。タナカは仕方がないように、パンっと手を叩いてから踊りだした。ツイストから、徐々に身体を左右に振ると、ターンを決めて、フロアの間を縫うように踊りだした。バカでかい連中の身体を嘲笑うようにすり抜けた。何十年と、毎晩とやってきたことだから、こんなことくらい、目を瞑っていてもできる。
 便所の近くまで来た時、ドボン、という大きな音が聞こえた。
 あの野郎、便器に飛び込みやがった。
 そう思ったのも束の間、おれは、便所の扉を吹き飛ばして出て来た、赤黒い液体に呑まれて、気を失った。

 
 呼び出された店の扉を開けると、フロアの真ん中では、赤黒いヒトガタの液体が一匹、音楽も掛けずに踊っていた。大勢いた筈の人間たちは、みんな、どこかへ逃げ出してしまったみたいだった。ぼくはバーのカウンターにもたれかかって、置き去りにされたビール瓶たちを片付けることにした。バドワイザー、ハイネケン、ギネス、スタウトがこの店の品揃えらしい。どの瓶も真っ赤に染まっていた。瓶どころか、そこら中が赤黒い液体で汚れていた。だけど、どういうわけか、ちっとも不快じゃなかった。寧ろ、これ以上ないってくらい心地よくさえあった。ぼくはそいつが踊る様子をじっくりと眺めることにした。
 ぼくは電子煙草のスイッチを入れた。
 ぼくは消えていた照明のスイッチを入れた。
 ぼくは止まっていた音楽のスイッチを入れた。
 ボーズのスピーカーからドンッ、と音の篭ったキック音がして、スピーカーを覆い尽くしていた液体を振動で弾き飛ばした。

--音量を最大まであげてくれ。

 ぼくは小さく頷いて、目一杯音量のツマミを右にまわした。通報を受け駆けつけた警察官がドアを開ける度に、フロア一面を覆う赤黒い液体に呑まれていった。十六人目の警察官が呑まれるまで、その捕食行為は続いた。バーケイズの「ユー・キャント・ラン・アウェイ」が掛かって、ぼくはステップを踏んだ。フロアの端から、真ん中へ。その人型のヘドロと踊るためだ。ヘドロは女の姿を取ると、ぼくに合わせてダンスをし始めた。そしてぼくらは軽いキスをした。終いにはぼくらは溶け合って、ぼくは二十人の記憶を持つただ一人の男となった。どうしてだろう。でも、一つだけ、わかっていることがあった。ぼくを含む、赤黒い液体に呑み込まれた二十人の男たちは、皆、父親になんらかの形で捨てられた経験がある、空虚な人間だった。そんだけ。

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