小説

『魔鏡譚』蟻目柊司(『ドリアン・グレイの肖像』オスカー・ワイルド)

 兵士が怒号をあげて彼らを制しますが、喧騒はただ勢いを増すばかりです。
 闇の中で中佐の咥えた煙草だけが赤く揺れていました。それが弧を描いて床に落ちていったかと思うと、突然紅い炎が舞い上がりました。
 地面に置かれた一斗缶に油が注がれていたのでしょう。缶の中で火が燃え盛っていました。
「貴様は魔鏡を知っているか」
 中佐がハンカチで懐中時計の血を拭い、一斗缶の上にかざしました。
「自分は、存じません」
 明々と燃える炎の放つ灯りを受けて、懐中時計はギラギラと輝きました。
「その昔、江戸幕府からの弾圧を受け身を潜めていた隠れキリシタンたちが、ひそかに持っていたそうだ」
 懐中時計の裏の金属面が火に向けられ、反射した光が独房の壁を円く照らします。大きな満月のように映し出されて揺らめくその円形の光には、何やら微かに濃淡があるように見えました。
「一見すると単なる鏡のようだが、光を反射させて壁を照らすと、キリストの像が浮かび上がったそうな」
 濃淡に見えたそれは、よく見ると何やら像を結んでいました。少しずつはっきりしていくそのかたちは、たしかに人の姿に見えました。キリストでしょうか? いや、違います。僕は壁に映し出されたものを目の当たりにしたとき、ぞっとして言葉を失いました。
 それは、紛れもなく僕自身の姿だったからです。

 それからと言うもの、ヴァシリーサを思い起こしながら、夜な夜な営舎の寝台でマッチを擦り、懐中時計の裏側に光を当てて壁に映る自らの肖像を眺める毎日が続きました。
 ヴァシリーサの血はすっかり落ちてしまっていましたし、いくら目を凝らしても裏面に何かが描かれているようには見えませんでした。どういった仕掛けがあるのか検討もつきません。
 そして、なぜか時折、時計の映し出す肖像が微かに変化しているように見えることがありました。それも、ぼやけてしまうだとか、歪んでしまうといったものではなく、浮かび上がる僕の表情が、どこか険しいものになっていく気がしたのです。
 僕は安藤中佐の命令により、被験体となった人々に日々過酷な実験や訓練を強いていました。それが任務だったからです。その任務が苛烈であればあるほど、その晩の僕の肖像は冷酷さを増しました。
 僕は恐ろしくなり、肖像を映すことを次第に止すようになりました。
 その頃にはすでに戦局は絶望的となっており、隊内にも不安と焦りが渦巻いていました。そして、中立条約を破ってソ連が満州へ侵攻してくると、軍上層部から証拠隠滅の命令が下り、兵隊たちは逃げ去る前に全てを燃やし尽くそうとしました。被験体も含めてです。
 施設のあちこちで爆発が起こり、資料や器具が炎に呑まれていくなかで、僕はヴァシリーサの独房に走りました。
 監獄にたどり着くと、そこにはすでに黒煙が立ち込め、被験体たちの助けを求める叫び声がこだましていました。僕は身を低くして奥へと進み、ヴァシリーサを探しました。

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