小説

『盗人と天女』多田宏(『竹取物語』『羽衣伝説』)

 また天女は心の奥底まで見抜くような眼で助左の顔を見ていたが、ふっと表情を緩めると頷いた。
「判りました。その代わり、必ず羽衣は返してくれますね?」
「もちろんだい。俺は天人じゃねえけど、ウソはつかねえよ」
「でも、貴方の嫁になって、何をしたら良いのか、何も知りませんのよ」
「そりゃ、そうだろうな。これから少しずつ説明して行くよ。それよりさ、名前を教えてくれねえか? あ、俺は助左って言うんだ」
「私には名前はありません」
「じゃ、天界じゃ皆、どうやって呼び合っているんだい?」
「はい。私は天帝様の宮殿の芙蓉(ふよう)の間(ま)に詰めていましたから、芙蓉の女官と」
「そうかい。それじゃ、俺は助左、お前さんは芙蓉、それでいいだろ?」
「はい。それで助左、取りあえず何をすれば?」
「そうさな、今夜の飯の支度かな? まあ、俺がやるところを見ていて覚えてくれりゃ、すぐにやり方は解るよ」

       三

 こうして始まった二人の暮らしだが、芙蓉は最初は不器用に見えた。飯の炊き方も料理の仕方も一度で覚えてしまうのは良いが、すると毎日まったく同じ料理だし、雨が降っていても洗濯物は干しっぱなしである。とは言え、不思議な事に芙蓉が着ている十二単も白い肌襦袢も白足袋も、まったく汚れることは無いようで、洗濯物は助左の物ばかりである。
 次第に芙蓉は要領を呑み込んで行き、ひと月も経たないうちに、すっかり「良(い)い嫁」になったから、助左は芙蓉が天女だったのを忘れるほどだった。実際、二人で温泉池に湯浴みに出かけても、芙蓉はあの羽衣を奪われた日の事は何も言わず、笑顔で静かに湯に浸かっているから、助左は四人の天女たちの姿を目にしたのは夢か幻だったような気がする。
 寝るのは、芙蓉は畳の奥座敷、助左は囲炉裏のある板の間と決まっている。それでも、ある夜、こっそり助左が奥座敷に忍び込もうとした途端、ビリビリっと体中に痛みが走り、次の瞬間、助左の体は板の間に跳ね飛ばされていた。それからしばらく心(しん)の臓が波打ったようにドッキン、ドッキンしたから助左は死ぬのではないかと思った。
 夏のある昼下がり、奥座敷で、芙蓉が助左に「私の背後(うしろ)に立っていてね」と言った。その通りにすると、芙蓉は口をすぼめて、ふーっと息を吹きかけるように吐いた。すると、家中の埃(ほこり)が舞い上がり、一陣の風に乗って戸口から表に飛び出して行った。気づくと、五十年は経っている小屋が何だかすっきりしている。
 数日後、助左が着物のほころびを繕(つくろ)っていると、芙蓉が指でつまんで軽くこすった。すると、ほころびは跡形もなくなった。
(そう言えば、天女の羽衣は縫い目がないと聞いた事があったなあ)

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